仏教の歴史を学ぶ!バラモン教とアーリア人、カーストの時代




やあ、天狗堂です。

仏教の開祖といえばお釈迦様!!教科書にも出てくる歴史的な人物です。

ですけど・・・お釈迦様のことって詳しく知ってますか?

彼が「どんな背景に生まれ、何を考え、仏教として何を伝えようとしたのか?」これを詳しく知っている方は少ないんじゃないでしょうか?

「仏教のことをもう少し知りたい!」「悟りだの仏だのって何の意味があるの?」

そんなあなたのためにお釈迦様の生涯を詳しくまとめてみました。全部で11回のシリーズとなっていますので、ぜひこちらの「仏教と心」の目次もあわせてご覧ください。

まず第一弾となるこの記事では、

「お釈迦様が生まれる以前のできごと」

についてわかりやすく解説しています。

これを読めば仏教が生まれてきた背景、世界観や大前提となるものが理解できます。

それでは行ってみましょう!!

そもそもお釈迦さまはなに人? どこで生まれたの?

まずはここから説明しましょう。

お釈迦様が生まれたのは「カピラヴァストゥ」という王国です。

場所は現在のネパール。ですがお釈迦様が生まれた当時ネパールという国はありませんでしたので、「インド(の文化圏)生まれの人」と言うことができるでしょう。

まあ、わかりやすくインド人でいーんじゃないかと思います。

仏教誕生以前のインドを知ることがメチャメチャ重要なわけ

さて、仏教の歴史を学ぶということですから「お釈迦さまの誕生~出家~成道~涅槃」という流れでお話しするのが一般的だろうと思います。

ですが、ここでは「お釈迦様が生まれるまでのインドはどんな状況だったのか?」について解説します。

「なんでそんな回り道をするの?」

と思う方もいるかもしれませんね。

その答えはズバリ、お釈迦さまが考えたことの動機や背景がそこにあるからです。

お釈迦様もまた人の子として育ちました。ですからその頭の中の世界観や発想は古代インド社会の影響を強く受けています。

これを知っていれば「お釈迦様がその時考えたこと」もすんなり頭に入るわけですね!」

で、古代インドの重要キーワードが「アーリア人」「バラモン教」「カースト制」です。

古代インド社会の状況を理解するためには、この三つが重要となってきます。

最初はまずアーリア人から説明していきましょう。

紀元前1500年、インド亜大陸にアーリア人が侵入する

むかしむかし、インドにはアーリア人とは違う人種の人々が住んでいました。

一説によると彼らは日本人とも近いモンゴロイド系の人々だったともいわれています。

ところが紀元前1500年くらいを境に、違う人種の人々がインド亜大陸にやってきました。彼らがアーリア人です。

アーリア人の特徴とは
アーリア人は深い彫り、高い鼻といった特徴をしていました。いわゆる「西洋っぽい顔」ですね。

彼らは草原地帯で狩猟と牧畜によって生計を立てていました。その中でも馬を特に重要視していたようです。

アーリア人は遊牧生活を営みながらゆっくり、ゆっくりとインドの土地に定着していきました。まぁ、定着と言えば聞こえはいいですが、もともとの先住民からしてみれば「侵略」に他なりません。

アーリア人の侵入によってインドの文化が決定づけられた

アーリア人はもともと中央アジアの草原地帯に暮らしていた遊牧民です。

ですが、彼らはある時期をさかいに周辺へ移動をはじめました。

その第一波はヨーロッパへ、第二波が今のイラン高原へ、そして第三波がインド方面に到達したのです。

ここで注意したいのが、

厳密に言えばアーリア人と呼んでいいのはイランとインド方面に向かったグループだけ

だということです。

なぜかというと、

イラン方面のグループはのちに聖典『アヴェスター』を、

インド方面のグループは聖典『ヴェーダ』を創り出し、

その中で自分たちを「アーリア人」と呼んでいるからです。

イラン(ペルシャ)とインドの古い文化は同じ根っこをもつ、とも言えますね!

このことは仏教の一派「密教」を語る上でもとても重要になってきますが、今はとりあえず気にしなくても大丈夫です。

しかしまた、なぜアーリア人はインドにやってきたの?

古代インドにアーリア人がやって来たことは歴史的な事実です。

しかしなぜアーリア人たちはこのような大移動を行ったのか?どうして先住民を征服することができたのか?

以下ではその秘密について迫っていきます。

遊牧民は土地にこだわらない

ポイントは「アーリア人が遊牧民だった」という点です。

遊牧民とは家畜に食わせる餌を求めて、つねに移動し続ける生活スタイルの人々です。

ということはつまり・・・「土地を所有する」という考え方が薄かった、ということですね!

遊牧民は草を求めてあちこちに移動します。なので豊かな草地があると聞けば、もともと住んでいる人のことなど気にせず、ガンガン侵入するわけです。まさに草も生えませぬ。

農耕民にとってみればたまったものではありません。しかし遊牧民の目からすると「せっかく移動した先で土地にしがみつく邪魔者がいる。仕方ないから蹴散らそう」という発想になってしまうのです。

で、どうしてアーリア人は強かったの?

インドに進入したアーリア人は土着の人々を圧倒的な軍事力で打倒し、インド亜大陸の支配階級となります。

このアーリア人の強さの秘密は「馬」にありました。

現在の馬具と言えば「手綱」(たづな)「鞍」(くら)「鐙」(あぶみ)の三つでセットです。

乗馬の風景。方向を指示する手綱、人間が乗る鞍、足を支える鐙の3点でセットになっている。

ところがこの時代より前、「鞍」と「鐙」は知られていませんでした。

鞍をつけていないウマにまたがるのは、曲芸のように難しいものです。そのため当時の馬の運用法は戦車(チャリオット)のような「馬の後ろに台車を曳かせる」というものがほとんどでした。

戦車(チャリオット)の図。馬に曳かせて一人、または二人が乗り込むことができた。鞍はつけていないことがわかる。

ところが「鞍」が発明されたことで状況は一変します。馬の背に鞍をつけることでこれまでよりずっと乗馬が簡単になったのです。

こぼれ話「鐙(あぶみ)」の登場
手綱、鞍とともに馬具の代表である鐙ですが、実は普及するようになったのはここから1000年以上後のことでした。

手綱、鞍、鐙がそろったことにより馬上戦術の幅が広がり、騎士が華々しく戦った中世という時代が幕を開けます。

中世ヨーロッパの騎士。あぶみで踏ん張ることにより、重い槍を突き出した突撃が可能になった。

馬を乗りこなせば移動範囲は飛躍的に広がります。

これにより「ヒツジや牛を草原に放し馬でそれを追う」という遊牧生活が可能になったのです。

こうして誕生した遊牧民たちは馬に乗って戦うことで、徒歩の人間とは比べものにならない戦闘力を手に入れました。

大げさに言えば、鞍の登場により世界史が一変したともいえるでしょう。

銃が圧倒するようになるまでの世界史は、「農耕民の国家」と「遊牧民の国家」による争いの歴史だったといっても過言ではないでしょう。

アーリア人がインド・イラン・ヨーロッパに移動した証拠はアレが決め手だった!!

上でアーリア人が各地に移動したと述べましたが、実はその当時、アーリア人は文字を持っていませんでした。

「それなのになぜルーツが一緒だとわかるの? 証拠は?」

そう思いますよね。その答えは「言語の共通性」にあります。

言語の共通性!? どういう意味でしょう?

言語の共通性というのはようするに、いろんな言語を比較してみたら似た部分が見つかった→それをたどっていけば共通の祖先がわかる!!ということです。

大英帝国のインド統治時代に判明したこと

アーリア人の大移動が判明したきっかけは18世紀、大英帝国がインドを植民地化したことがきっかけです。

インドを支配した大英帝国は、植民地の運営のためにたくさんの学者を本国から送りました。

「植民地の支配にはまず土地を知らねばならない」「いや、まずは人材でしょう」「とりあえず言葉を調べてみませんか?」

こうして各地にたくさんの学者が派遣されました。そこで明らかになったのが、

「インドの言葉は自分たちの言葉と似ている!!」

という事実でした。

例を挙げてみましょう。天狗堂は密教の「阿闍梨(あじゃり)」という位を授かっています。

これをサンスクリット語に直すと「アーチャーリヤ」。教師という意味になります!!

この「アーチャーリヤ」と祖先を同じくするのが英語の「ティーチャー」です。

こうしてヨーロッパとインドの言葉のつながりが明らかになりました。そして、その後の調査によりイラン(当時のペルシャ)もまた言葉が共通していることが判明します。

つまり、インド・イラン・ヨーロッパの人々には共通の祖先がいる(インド・ヨーロッパ語族)ことが明らかになったわけです。

話はそれるけどとても大事なことをお知らせします

アーリア人、という言葉はなかなか厄介な言葉でもあります。

つい数十年前までアーリア人の原居住地ははっきりしておらず、「祖先は共通する」という言葉が一人歩きしていました。

そこに「ヨーロッパの白人種が世界で一番優秀である」というヨーロッパ中心主義が結びついたのだから大変です。

つまり、こんな考えが発生する土壌となったのです。

「アーリア人は偉大な征服者だったんだ!」

「ほう」

「ところが征服した土地で土着の民族と交わり、雑種になってしまった」

「なるほど!」

「しかし!! アーリア人の故郷では未だ純血のアーリア人が残っている」

「ふむふむ。それで?」

「実はその土地とはドイツのこと。つまり我々ゲルマン人は純血のアーリア人だったんだよ!!」

「な、なんだってー!!??」

とまあこんな話になりました。

このゲルマン=アーリア説は第一次大戦で敗北し、多額の賠償金に苦しんでいた当時のドイツ人の心をがっちりとつかみます。

「で、でも、なんで優秀なはずのドイツ人がこんなに惨めになってるの?」

「まだわからないのか! それは我々の国に裏切者がいるからだ。その裏切者こそ・・・」

「「ユ、ユダヤ人!!」」

という、ユダヤ人迫害の原因の一つとなったのです。

アーリア人という言葉には少なからず注意が必要です!!

アーリア人の侵入以後~バラモン教の成立

さて、では古代インドの話に戻りましょう。

アーリア人は遊牧民としてインドにやってきましたが、湿潤な土地は遊牧には不向きでした。

彼らはしだいに定住化するようになり、もともとの先住民を組み込んだ社会をつくりあげます。

その過程でアーリア人か持ち込んだ文化と、先住民の文化も融合していきました。

こうして誕生したのがバラモン教です。

バラモン教は自然神を崇拝していました。えっ、自然神って何かって?

アーリア人と先住民の宗教が融合して生まれたバラモン教。その特徴は「自然神を崇拝する多神教」です。

自然神とはたとえば、雷や嵐、川や山といった自然そのもの、あるいは約束や愛、賭け事といった人間の営みを神格化した存在です。

天空・司法・水を司る神、ヴァルナ

面白いのがこのこの自然神という存在は、その性格が元になった現象に引っ張られるわけです。

川の女神なら恵みをもたらす優しい存在雷の神様なら猛々しく悪霊と戦う存在、といった役割が与えられるわけですね。

火神アグニ

そして重要なのが、バラモン教の神々は絶対的な存在ではなかったという点です。

不老不死を手に入れてはいるものの、彼らは争いによって傷つき、怒りもするし泣きもする神々だったのです。

こうしたバラモン教の宗教観は、後にお釈迦さまの思想にも大きな影響を与えることになります。

神々にはゴマスリがよく効きます

さて、バラモン教の神々は「自然を神格化した存在」です。つまり自然災害は神々の怒りだと考えられていたわけです。

ではこうした災害から身を守り、あるいは賭け事や戦争がうまくいくためにはどうしたらよいでしょうか?

バラモン教の考えでは「神様の機嫌を損ねぬようにする」ことが大切だと考えられました。

そこで神様に供え物をささげ、その名を褒め称えれば神々は満足し、人間に恵みを与えてくれると信じられていたのです。

これは仏教にも大きな影響を与えています。マントラ、日本でいう「真言」というのは、直訳すればすべて「〇〇神は偉大なり!!」と言っているのです。

神様との交信には資格が必要なのです

ところがここに一つ厄介な点がありました。

つまり普通の人間は神様と交信することができないと古代インド人は考えていたのです。

とある個人が勝手に捧げものを用意し、いくら神様を褒め称えても神々の耳には届きません。

ならどうすればよいのでしょうか?

それには「神と交信する能力がある人間」が必要とされました。

そうした能力のある人間が所定の手続きを行い、定められた聖なる言葉で語りかけることにより、ようやく神様はこちらに気づいてくれるのです。

これは、現代でいうところの行政書士や弁護士のような「間に入る人間」とも言えます。

この「神と交信する素質のある人々」はバラモンと呼ばれ、インドの身分制度の頂点に位置することになりました。

バラモン教の宗教観からカースト制がつくられる

こうしたバラモン教の宗教観から生まれた身分制度が「カースト制」です。

もともと宗教的なものですので、もちろん神官であるバラモンが頂点に君臨します。

そしてその下に戦士階級。いわゆる王族などの支配階級が位置します。あくまで俗世の人間ではあるけども、社会の中で強い影響力を持つこれらの人々はクシャトリアとよばれました。

その次に来るのが普通の、しかし自由民であるヴァイシャです。これらの人々は商工業や地主など様々な職業に従事しました。

さらにその下に職業選択の自由がない小作人、使用人であるシュードラが位置します。これらの人々は上の三つのカーストの支配下に置かれていました。

こうして古代インドに「バラモン」「クシャトリア」「ヴァイシャ」「シュードラ」という四つの階級が生まれました。これが「カースト制」です。

カーストからさえ疎外された人々

このカースト制は支配者であるアーリア人にとって都合がいいように定められました。

バラモンは当然すべてがアーリア系の人々によって占められ、クシャトリアもほとんど彼らが独占していました。

自由民であるヴァイシャには先住民もアーリア人も含まれていたようですが、その下のシュードラに至ってはそのほとんどが先住民でした。

しかし、この四つのカーストの下に、カースト制からさえ外れた人々が存在しました。カースト制の外、ということで彼らは「アウトカースト(ダリット)」と呼ばれています。

ダリット(दलित)は、「困窮した者」「押しつぶされた者」「抑圧されている者」の意であり、アウト・カースト、もしくはアチュートと呼ばれサンスクリット語ではアスプリシュヤ(aspṛśya)という。

ダリットには、皮革労働者(チャマール)、屠畜業者(マハール)、貧農、土地を持たない労働者、街路清掃人(バンギー、またはチュラ)、街の手工業者、バーリヤなどの民俗芸能者、洗濯人(ドービー)などのジャーティが含まれる。

ジャーティがインドの社会秩序においてどのような地位を占めるかの基準は、人格や専門性などではなく、その職業をおこなうにあたっての接触する物体の浄・不浄の度合いによって決められているとされている。穢れは、「死」「産」「血」「体からの分泌物」より生じると考えられ、つぎつぎに伝染するとされてきた。上記の職業は、不浄なものに触れやすいとして、伝統的に、特に低い地位におかれてきたのである。

出典 wikipedia

ここにある通り、アウトカーストの人々は伝統的な社会で「穢れ(ケガレ)」を持つと考えられた職業を押し付けられてきたのです。

ケガレってそもそも何なんだろう?

さて、しかし「穢れ」とはそもそも何なのでしょうか?

文化人類学の観点から見るとケガレと汚れの違いは、

「汚れ」とは物理的なものであり、洗浄することで除去できる

「穢れ」とは主に精神的なものであり通常の方法では除去できない

という点にあります。

ここにある通りケガレは通常の方法では除去できず、宗教的な行為を通じてしか落とすことはできないと考えられていました。

そしてさらに厄介なことがあります。「ケガレは伝染する」と考えられていたのです。

その伝染方法は様々ですが、主に「視る(視覚感染)」「聞く(聴覚感染)」「食べる(経口感染)」「触る(接触感染)」に分類することができます。

そのためアウトカーストの人々は、

食事を共にしてはいけない

・持ち物や体が触れてもいけない

・声を聴くことも目に映ることも不浄

という扱いを受けていたのでした。

ケガレの根源には〇〇があった!聖なるものと不浄なものの分類とは?

しかし、どうして人間は世界各地で「穢れ」という考えを生み出してきたのでしょうか?

その原因は、前近代社会で猛威を振るった疫病にあります。

いまだ病気の原因、つまりウィルスや細菌が発見されていなかったころ、病の原因は「人間に害を及ぼす何か」という漠然としたイメージで考えられていました。

そこで人間は経験則から世の中のものを「清浄なもの」と「不浄なもの」に二分したのです。

「澱んだ水を飲んだら腹を下して死んだ」「悪霊の仕業だ!」

「糞尿を放置してたら伝染病にかかった」「悪い空気の仕業だ!」

「動物の血に触れたら病気になった」「穢れの仕業だ!」

という理屈で疫病を説明しようとしたのです。

人間にとって不安なのは「説明がつかないこと」です。そのため、人間は理屈をひねり出して理解可能なものにしようとしたわけですな。

多くのの文化圏で腐敗や異臭に関係があるもの「血・生ごみ・糞尿・死骸・澱んだ水」が穢れているとされるのはこのためです。

逆に腐敗しない、させない、あるいはよい香りのする「金属(中でも錆びない金)・塩・乾燥した穀物・香辛料・お香・花・清らかな水」は清浄なものだと考えられるようになりました。

強い香りのする香辛料は世界中で魔除けと考えられていた

ケガレと差別。血の原理の厄介な点とは!?

現代に生きる私たちにとって、病気とはウィルスや細菌が引き起こすものだと理解が可能です。しかしそうした知識を持たない古代人は、これを「ケガレの仕業」と考えるしかありませんでした。

そして厄介なことに、この概念は人間にも適用されたのです。

つまり世の中には「清らかな人間」と「穢れた人間」がいる、と考えられたわけです。

これはちょっと、受け入れがたい考え方ですな~!!

しかもこのケガレは「血の原理」によって遺伝するとされ、生まれた子も同じ浄・不浄を受け継ぐとされました。

カースト制度の下でバラモン階級は全く穢れのない者とされていました。

それが下の階級に行くにつれてケガレの量は増し、アウトカーストの人々にいたっては声を聞くことも目にすることもケガレが伝染する、と考えられるようになったのです。

さらに厄介なことに、このカースト制はバラモン教という宗教と密接に結びついていました。

ようするに「単なる慣習」ではなく「神様がお決めになったこと」と考えられていたのです。

こうした宗教と差別構造の結びつきを解消するのはたいへん困難です。現代のインドでもカーストに起因する事件がたびたび発生しています。

こうした因習から抜け出すためにはどうしたらいいのでしょう? 「神様がお決めになったこと」であるなら、社会改革だけでは解消しないのです。

ならば・・・・・・バラモン教の影響下から抜け出せばいい。誰もが平等な新しい宗教をつくればいいのだ、と考える時代が到来します。

こうして古代インドにバラモン教の権威を認めない人々、「自由思想家」が登場するのです。

というわけで、今回のお話はここまで!

次回お釈迦様の生誕した時代を僧侶が本気で解説してみるでは、古代インド社会の発展による人びとのあり方の変化、そうした時代状況に生まれたお釈迦さまのことを解説していきます。

ではでは~!!

「仏教と心」の目次へ戻る







シェアするならこちらから