一切皆苦で四苦八苦!仏教における苦の分類とは?




やあ、天狗堂です。

前回の仏教の世界観は「一切は苦しみ」。その理由を説明しますでは、

Q なぜ仏教では悟りが重要視され、解脱を求めるのか?

A それは仏教が「人生は苦そのものである(かのように見える)」と考えているからだ

…ということを説明しました。

今回はその続きです。

「人生は苦しみって言ったって、楽しいことだってあるじゃない」「なんか嫌なことでもあったの?」

そんなことを思い浮かべるのも無理はありませんよね。もちろん仏教は何も「自ら進んで苦しみを引き受けろ」とは言いません。

ですが、それでもあえて「人生は苦」を根本的な概念に据えたのはなぜか?そこの所をご紹介していきます。

お釈迦さまも苦を感じて悟りを求めた

まずは開祖であるお釈迦様のことからみていきましょう。

お寺のご本尊などで見かけるお釈迦様は、どこか人間離れした超人のように感じられますよね?

ですが、お釈迦様とて生まれながらに神通力を振るったり、神から特別な啓示を受けたわけではありません。

釈尊もまた我々と同じように、病に苦しみ不幸に悩む、豊かな感性を持つ人間だったのです。

ですから仏教は「神から選ばれた人間が一般人に語った教え」というわけではありません。むしろ、一般人であったゴーダマ・シッダールタ(釈尊)が悩み苦しみ、それをどうにか解決したいと願ってたどり着いた教えなのです。

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正直に人生と苦を見つめてみると…?

さて、仏教の目標は「平穏の境地」。言い換えれば「幸福」であるとも言えます。

しかし、その幸福とは世間一般で言うところの「多くの資産を得る幸せ」「美男美女に囲まれる幸せ」とは質の異なるものです。

なんとなればお釈迦様自身、シャカ族の王子という富や名誉に恵まれた立場だったに関わらず、それを捨てたことからもうかがえます。

「人生は苦」は実践上の真理

このように、お釈迦様は「人生はまぎれもなく苦しみである」と見抜き、悟りを求めました。

ところで「人生は苦である」と言うとなんだか仏教はすごくネガティブな宗教のように思えますよね?

ですがこれは「人間の目から見た真理」であることに注意が必要です。

すなわち、

・(人間の目からすれば)人生は苦であるが、

・(悟りを開いた者の目からすると)人生は苦である(かのように見える)

ということに注目する必要があるでしょう。仏教とはまさに「かのように見える」ことを認識することが目標なのです。

どんな立場であれ苦しみがない人はいない

「なるほど。しかし例えば○○さんは苦労知らずで何不自由なく暮らしている。あれで不幸と言ったらバチが当たりますよ!!」

なんて気持ちはないでしょうか?

たしかに恵まれた環境の方が「自分は不幸だ…」などと嘆息していれば、無茶苦茶なわがままのように聞こえます。

ですが考えてみてください。誰もが正直に自分の心をさらしたとして「なに一つ苦しみはない」と言い切れる人はいるでしょうか?

例えば若い人が将来の不安や恋愛、金銭の欠如に悩まされることは多々あります。自由のなさに苦しみ、人間関係で傷つく…これもよくあることですよね?

仮にこれらの問題を解決し中年になったとして、今度は別の不安が生じます。社会的な責任、家族の関係、健康上の不安、ローンの支払い…。

そして老人になっても不安から切り離されることはない。いや、いっそうのこと不安や苦しみを感じる方も多々いらっしゃいます。

若さへの嫉妬、老いていく自分、病気の苦しみ、今まで当たり前だったことができなくなっていき、刻々と死は近づいていく…

こうしてみると人生はまぎれもなく苦しみの連続と言えるでしょう。

「人生は苦しみ」とは恵まれた人の戯言ではない

このように「人生は苦である」とは恵まれた人の抽象的な悩みではありません。むしろ生々しい現実をありのままに語った結果だと言えるでしょう。

ところが、実際には人はこうしたことをあまり口にしないものです。

耐えること、我慢することが社会的な美徳とされ、苦しみを押し殺すことが称賛される。その抑圧された苦しみは心の奥深くによどみを作り、ありとあらゆる病苦となってその人を苦しめる…。

「とにかくまずはそれを認めようよ!」とするのが仏教の根本的な在り方なのです。

幸せや快楽も永遠ではない

「しかし人生には良いことだってあるじゃないか!」と思う方もいるでしょう。

たしかに人生は苦しみも多いですが、それと比べるだけの喜びも多いものです。

豊かな食事、円満な家庭、成長する子供、あるいは金銭や異性などから喜びを感じることも間違いではありません。

ところがここが厄介なところで、人はその喜びをいつまでも続くものだと勘違いしがちです。そしてそれが失われた結果、より一層の悲しみに打ちひしがれることもざらにあります。

あるいは、誰も非のつけどころのない善行を行っていたとしましょう。

しかしそこで善行そのものに執着しすぎると、それが叶わなかったときに悲しみ、断られたときに憤りを感じ、善行が成せないならば新たな対象者を増やす…という危険な発想に陥りかねません。

これは善行が快楽となってしまったがために起きることなのです。

一般的な幸福と仏教の目指す幸福

さて、上で見た幸福はいわば「世間一般の幸福」です。これはどんな手段をもってしてもいつかは崩壊する幸福です。

環境の違いこそあれ、どんな人間にも大小の苦が常に湧き上がっている…と見るのが仏教の現実(現世)分析です。

これに対し仏教は「苦を感じるシステム」の把握を通じて「苦しみの完全な解決」を図ります。

この最終目標を涅槃と言い解脱と言うのです。

苦の分類

仏教において中心的な課題である「苦」。サンスクリット語では「ドゥッカ」といい、日本語に訳すと「損脳」「逼迫」となります。

いろんな悩みが我々の心と体に迫り、心と体が悩みによって損傷する、という意味合いですね。

こうした苦はいくつかの分類に分けられます。ここでは

・最も有名な「四苦八苦」の八苦

・苦をその性質で分けた三苦

・輪廻を二つに分ける世俗苦と勝義苦

について説明します。

八苦

【生苦】

生苦とは生まれることそのものが苦しみ、ということを意味します。仏教では輪廻そのものを苦と考えます。ですから生まれ変わったということはもう一度苦の世界を体験せねばならない…となります。

それゆえ生まれることそのものが苦であるという発想になるわけです。生きる苦しみとは違うことに注意。 

【老苦】

老苦とは老いることに対する苦しみです。あらゆる人は歳をとり、しだいに腰は曲がり関節は痛み、物覚えは悪くなっていきます。このことを仏教は直視して「老いることは苦しみである」と観るわけです。

もちろん老人に対するいたわりの心は仏教においても推奨されています。ただ、礼儀や倫理とこの世の真理は分けて考える必要があるということです。 

【病苦】

病苦とは病の苦しみです。腹痛からガン、怪我、食中毒までこの世は病に満ちた世界です。しかも古代インドにおいては「なぜ病が発生するのか」もはっきりとわかってはいませんでした。

人生において避けがたいものの一つが病気であり、これはまぎれもない苦しみです。 

【死苦】

死苦は文字通り死に対する苦しみです。どんな人間も死は避けられず、この世で培ったありとあらゆるものを手放さなければなりません。

古来より権力者はこれをおそれて不老不死の秘術を探し求めました。しかしながらそれを達成した人物はいまだかつて誰もいないのも事実です。 

さて、ここまで四苦八苦のうち「四苦」を見ていきました。ここから先はもう少し抽象的で精神的な苦しみを扱ったものとなります。

【愛別離苦】

愛別離苦とは愛しいものと別れる苦しみです。家族や友人、あいるいはペットなどもいつかは別れなければなりません。その時の苦しみはとてもつらいものがあります。 

【怨憎会苦】

怨憎会苦とは嫌な、憎んでいる人物と会わなければならない苦しみです。人は社会の中で様々な「嫌いな人間」「許せない人間」に出会います。しかも生きる上でうまく付き合っていかなければならない場合もある…怨憎会苦はこうした苦しみを表わしたものです。

愛別離苦と怨憎会苦はこのように表裏一体のものです。生きる上で他の人間と関わらなければならないのは事実ですが、それが別れの苦しみ、出会いの苦しみを生み出すのです。

仏教は憎しみを推奨するわけではありませんが、「あるがままの心」を観察したとき誰しもそういった側面は持っているのだよ、と認めているわけです。 

【求不得苦】

求不得苦とは求めて得られない苦しみです。我々は常に何かを欲望する存在です。若さが欲しい、資産が欲しい、地位が欲しい、自由が欲しい…しかしどうでしょう。その欲望のほとんどは叶えられることはないのではないでしょうか?

ここから不満や不平が生じます。しかし通常、その不満をそのまま口に出すことはありません。我々の心の奥に押し込められたストレスは、精神的な病に形を変えて人間を苦しめるわけです。 

【五盛陰苦】

五盛陰苦(ごじょうおんく)とは人間が持つ五つの要素(五蘊・ごうん)からくる苦しみを指します。これは前の七つの苦を機能別に分類したものだとも言えるでしょう。五蘊を順に説明すると――

色:物質のこと。変化し壊れ、一定の空間を占有するものを指す。

受:苦しみや快楽などを甘受するはたらきのこと。

想:概念をつくる作用。例えば丸くて赤い物体を見たときに「あれはリンゴだ!」と感じるはたらきを指します。

行:心の働きのうち、受や想、そして識を除いたすべてのはたらきを指します。代表的なものに意思があります。

識:識は判断や認識を知る主体を指します。つまるところ「心」そのものと言っていいでしょう。

つまり五蘊とは物質と精神のことを意味しています。この五蘊に執着することで苦しみが起きる…これが五盛陰苦です。

俗に「とらわれ」とも言いますが、物事や思想に固執して手放さないことで苦悩が生まれ、場合によっては悪となることもあり得るわけです。

三苦

さて、お次は三苦です。こちらは先ほどの四苦八苦をやや抽象的に分類しなおしたものです。

【苦苦】

苦苦(くく)とは肉体的な苦痛を意味します。怪我や病気、飢餓など肉体的な苦痛のほかに、好ましくないものから与えられる苦しみもここに分類されます。 

【壊苦】

壊苦(えく)とは精神的な苦しみを指します。自分が好ましいと思っているものが破壊されたり損失することによって生じます。財産を失う。若さを失う。家族を失う。人生においては様々な喪失を経験することになります。 

【行苦】

行苦とは変化するものに対する苦しみです。この世のありとあらゆるものは移り変わりゆくものですが、人間はこれを永遠だと思い執着し、それが裏切られることによって苦しみが生じます。

仏教では一般的に「変化するものは苦である」と説かれてきました。苦苦や壊苦もその意味で行苦の一部であると言えるでしょう。 

この三苦に八苦を当てはめると、

苦苦→生苦・老苦・病苦・死苦・怨憎会苦

壊苦→愛別離苦・求不得苦

行苦→五盛陰苦

が相当します。

世俗苦と勝義苦

ここでは苦しみを輪廻の六道に当てはめて分類しています。ここでいう世俗とは「一般的な」という意味が、また勝義とは「最高の・優れた」といった意味をもちます。

【世俗苦】

苦しみがきわめて大きい世界を意味します。地獄道、餓鬼道、畜生道がこれに当てはまります。 

【勝義苦】

世俗苦に比べると苦が少なく、楽の多い世界を意味します。人間道や天道などがこれに当てはまります。 

勝義苦の世界は楽も多いため、一見すると苦しみと言われてもピンとこないことも多いでしょう。しかしながら輪廻の中にある限り、それは永遠ではなくいつかは失われる苦悩が待ち構えています。

これを忘れて目の前の楽を追ってしまうために、我々は涅槃を願うことなく再び輪廻してしまうのだ…と仏教では考えるのです。

まとめ

以上、仏教の根本にある「この世は苦である」という思想を見ていきました。

それでは前回までの、

仏教の目標っていったい何なの?~解脱・涅槃・悟りの智慧

仏教の世界観は「一切は苦しみ」。その理由を説明します

を合わせてまとめてみましょう。

・まず、仏教には目指すもの「絶対的な幸福/平穏の境地」があることを説明しました。

・この境地は涅槃・解脱・悟りの智慧の獲得、と表現されます。

・悟りの智慧を獲得することで輪廻から解脱し、涅槃に入る。これが仏教の最終目標です。

・しかしなぜ絶対的な幸福を目指すのか?それは仏教の現実分析が「この世は苦である」とみているからです。

・一見すると楽も多いこの世界ですが、やはり永遠に続くものではなく、いつかは崩壊し苦悩をもたらす。釈尊が問題視したのはこのポイントでした。

・そこで完全なる平穏を目指すこと、すなわち解脱・涅槃・悟りを目指すことが最終目標に掲げられたということです。

さて、仏教の問題意識は理解できましたでしょうか?次回はそこで問題とされる「輪廻」についてもう少し詳しく見ていきます。

ってことで今回はここまで!!ではでは~(*´▽`*)

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