やあ、天狗堂です。

前回の一切皆苦で四苦八苦!仏教における苦の分類とは?では、
・仏教は「人生は苦である」ことを問題とする
・その苦を分類すると「四苦八苦」「三苦」等に分類できる
・輪廻の内にある限り苦しみを完全に断つことはできない
ということを見てきました。
我々人間の世界は一見すると「楽」の多い世界ですが、やはりそれもいつかは崩壊し苦悩をもたらします。どんな栄誉も享楽もいつかは終わりを迎える…ということです。
お釈迦様はこうした「輪廻の内にある限り逃れられない苦しみ」を問題視し、その解決手段を模索したわけです。しかしこの「輪廻」とは一体何なのでしょう?
今回はそのあたりを詳しく説明していきます。
■目次
輪廻はインドで一般的な考え方。お釈迦さまもその世界観を引き継いだ
輪廻とは、
「生命あるものは死んでもまた六道と呼ばれる世界のいずれかに生まれ変わる」
というインドでは一般的な考え方です。
お釈迦さまもまた古代インドの生まれでしたので、この思想を仏教に取り入れました。
この輪廻の世界は「迷いの苦の世界」ともいわれ、三界六道と呼び表わされます。
輪廻は三界六道とも言われ、二種類の分類がある
では三界六道とはどんな分類なのか、図をご覧ください。

この三界六道はどれも同じ輪廻の中にあります。
しかしなぜ三界と六道、二つに分類されるのかと言えば、
・三界は輪廻の世界を精神的な面からとらえた分類
・六道は具体的な苦や楽の有様をとらえた分類
というように、同じものを二つの側面から切り取っているからです。
六道は苦楽の大小を昔の人にわかりやすく説明するための分類と考えられます。
ですから、図の上に行けば行くほど苦が減少し楽が増大、下に行くほど苦が増大し楽が減少する…という理解をするのがよいでしょう。
どの段階であれ輪廻の中にいる限り苦は消えることがない
全ての生命はこの輪廻の中を回り続けています。
善の行為を行えば行うほど未来に楽の結果がもたらされ、悪の行為により未来に苦の結果がもたらされる…という考え方です。
ところが、たとえ天上界であってもその最上位の無色界であっても、輪廻の苦の世界には変わりありません。どのような楽もいずれは崩壊を迎えます。その端的な例が「死」です。
もちろん人間界も例外ではなく、楽の多い世界ですが苦が存在することも事実です(前回の勝義苦がこれです)。
三界について
ではここで三界について簡単にご紹介しておきましょう。
三界は輪廻を精神的な在り方から下から順に欲界、色界、無色界の三つに区分して考えたもので、
欲界:感覚的な欲望の世界。我々人間の世界もここに含まれる
色界:感覚的な欲望はなくなったものの、物質的なものは残る世界
無色界:物質的なものもなくなった、抽象的な精神のみの世界
となります。
これらは善悪の行いというよりは禅定(瞑想)の境地による心の状態を示すことが多くあります。
例えばお釈迦様の先生であったウッダカ・ラーマプッタ師は、無色界の最上位である非想非非想処天の境地にあったと言われています。
しかし、この最上位にあっても輪廻から抜け出した(解脱した)わけではないことに注意が必要です。
六道について
次に六道ですが、こちらは輪廻の世界を天道、人間道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道の六つの世界に分類したものです。
地獄道について

地獄道は輪廻の中でももっとも苦に満ちた世界です。
そこに存在する生命は絶え間ない苦痛に追い回される、楽のない場所だと考えられています。
餓鬼道について

餓鬼道は地獄道より幾分苦の減少した世界です。
絶え間ない責め苦に苦しむことはありませんが、いつも空腹や渇きを覚え満足することができません。
畜生道について

畜生道は天人や人間を除くすべての生命の生存状態を指します。すなわち獣や鳥、魚、昆虫といった生き物の世界です。
動物の世界は楽も多いですが、病気や争い、捕獲、飢餓など苦しみもまた多い場所であると考えられています。
阿修羅道について

阿修羅はもともとインド神話における神族の住む世界です。
しかしながら「戦いの神」という特徴から、いつも争いごとに明け暮れる存在として、人間道よりも苦の大きい世界に位置付けられています。
人間道について

人間道は私たち人間の住む世界です。
人間は輪廻の中では比較的楽の多く、苦の少ない世界に生きています。「人天の楽果」といい、ともすれば楽を享受するあまり苦があることを忘れてしまいがちなほどです。
しかし仏教では「その楽しみもいつかは崩壊する」ことを大前提としています。
手放しに楽をむさぼることも、人間道を地獄道のように見なすのも極端な考え方であり、苦楽の両面を直視することが大切だと言えるでしょう。
天道について

天道は六道の中でももっとも楽の多い世界です。
そこに住む住人は天人、あるいは○○天と呼ばれるインドの神たちです。
天上界は楽が多く寿命も非常に長い優れた世界ですが、決して悟りに近いわけでも涅槃に入っているわけでもない、迷いの中の世界であることに変わりはありません。
仏と天人の関係
ところで天人はいまだ迷いの世界にいる存在と述べました。一方、仏(ブッダ)は解脱し涅槃に入った存在です。
ですから仏は(お釈迦様のように人間出身であろうとも)天人より上位の存在(天人師)とされているのです。
インドの神の最上位に位置する梵天(ブラフマー)がブッダに教えを説くよう懇願したのもこのためです。
歴史的な経緯から言えば、古代インドに誕生した仏教はその拡大過程でインドの民衆を教化する必要がありました。そのため、すでに庶民に身近であったインドの神々を仏教の守護神として位置付けたと考えられます。
輪廻とは三界六道を生まれ変わること(同じところを回るのではない)
このように輪廻とは三界六道を(その行いの結果によって)目まぐるしく生まれては死に、また生まれ変わる…というプロセスを指します。
輪廻という字面から、同じ世界を生きなおし、同じことを繰り返す…というイメージを持たれがちですが、それははっきりと間違いです。
ですから○○さんの前世は江戸時代の△△、その前世は中世ヨーロッパの△△で…という話は(ありえなくもないが)滅多なことでは起きるものではない、と言わなくてはなりません。
なぜならば、この輪廻世界には人間以外にも様々な存在がいると考えられるからです。
野の獣、水中の魚、空を飛ぶ鳥、地中の微生物まで含めれば膨大な数となり、その中から人間に再び生まれ変わるというのは(確率の問題として)極めて稀なことなのです。
楽と苦はそのまま善と悪であるわけではない
さて、ここで一点気を付けるべきことがあります。それは「天上界が善で地獄界が悪」ではないということです。
つまり天上界は「楽の多く苦の少ない世界」なだけであって、そこに住む住人が善なる存在ではないのです。
同じように地獄界も「楽が無く、苦に満ち溢れた世界」ではあるものの、そこに住む存在が悪というわけではありません。
この人間界は天上界に次ぐ楽の世界ですが、そこに住む人間が善人ばかりではないということから容易に導き出せるでしょう。
輪廻説からはどれが上位でどれが下位…という発想は出てこない
また、輪廻の世界はどれも相互に行き来する可能性があります。ですから輪廻説からは人間の他の生物に対する優越性や支配権の思想は出てこないことに注意が必要です。
例えば神々でさえ人間と同じく生まれ変わる存在です。
長い輪廻の中でたまたま「今」人間であるに過ぎず、次の世界では神に、あるいは餓鬼に生まれ変わる可能性もあるのです。
このような思想からはどれが上位でどれが下位…という発想には至りません。むしろどんな生命であれど、輪廻の中で翻弄されるづける仲間であり、その立場は平等であると考えるのが仏教の思想です。
日本における輪廻の受容
さて、古代インドで生まれた輪廻の思想は仏教にも受け継がれ、日本へ伝来しました。…ですが、どうも輪廻説は日本人の感性になじまなかったようです。
日本において生まれ変わりといえば「人間→人間」という限られた範囲の話として語らがちであり、餓鬼や畜生類への生まれ変わりはあまり浸透していません。
おそらく最もなじみ深いのは、死んだ人間は「ご先祖様」として死後の世界に行き、そこから子孫を見守る祖霊となる(だからきちんと祀らないと祟りが起きる)というものではないでしょうか?
もちろんこれは仏教の思想ではありません。ですが歴史的な経緯やその他の宗教の影響もあり、日本人の死生観は独自の複雑なものになっているのが現状です。
輪廻を知ることで「なぜお釈迦様は解脱を目指したのか」がわかる
以上が輪廻の説明です。これを読んでわかる通り、仏教が最終的に目指すのは輪廻の内側から抜け出すことです。
なぜ解脱、涅槃が重要視されるのかは輪廻の内実を知らないとはっきりわからないものだと言えるでしょう。
お釈迦さまもまた、こうした世界観を前提として、輪廻の苦しみから逃れるすべを模索したのです。
しかし、苦しみから逃れるためには、苦しみの元となるきっかけを知らねばなりません。そもそも苦はなぜ発生するのでしょう?
仏教はその原因を「三道」という言葉にまとめています。次回はこの三道を詳しく見ていくことにしましょう。

ということで、今回はここまで!ではでは~(*´▽`*)
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