悩みの原因は○○!?仏教が見る苦の原因「三道」と「三毒」




やあ、天狗堂です。

前回の地獄?天国?生まれ変わり?仏教と輪廻のメカニズムとはでは、輪廻の構造について

・輪廻の世界は三界六道と呼び表わされる

・輪廻にいる限り苦から逃れることはできない

・そのため仏教では輪廻からの解放=解脱を目指す

ことを見ていきました。

ところで、仏教で問題視する「苦」はなぜ発生するのでしょう?

その仕組みを仏教では「惑・業・苦」と分類し、三道と名付けました。

この仕組みを詳細に分析することで苦の発生原因を見つけることができる→発生原因を知ればそれを断つことにより、苦を解決することができる…と考えたわけです。

今回はこの「惑・業・苦」のうち、根本にある「惑=煩悩」について見ていきましょう。

三道(惑業苦)とはなんだろう?

まず三道がどういう関係なのかを見ていきましょう。

問題となる苦に対し、直接の原因は業、間接の原因は惑です。

惑(煩悩)があるから業(行為)を誤る→誤った行為が苦をもたらす、という流れです。

つまるところ、惑(煩悩)をどうにか処理することができれば業(行為)の誤りはなくなり、すると苦しみは生まれない…ということになります。

この時用いるツールこそ「悟りの智慧」と呼ばれるものです。

原因と結果こそ仏教の発見

三道の根底にあるのは「原因を断てば結果も消滅するだろ?」という発想です。

いや、当たり前じゃないか…と思うなかれ。それまでの古代インドでは「輪廻は宿命」「苦はランダム」「神がすべてを決める」という発想が主流だったのです。

宿命だったりランダムであれば何をやろうがどうしようもありませんよね?そして神様がすべてを決めるという発想だと、神に祈りを捧げたり教えに従うしかなくなります。

仏教はそこに「いや、すべては原因と結果だ」という思想を持ち込みました。それによって「努力して原因を取り除けば、かならず結果を断つことができる」と主張したのです。

三道その一「惑」の分類

では今回は三道の一つである「惑」について詳しく見ていきましょう。

ここでいう惑とは煩悩の別称であり、「クレーシャ」の訳語です。クレーシャとは我々の心をかき乱し、煩わせ、悩ませる心の働きを指します。

ですから「惑→業→苦」とは、煩悩が業を起こし、業によって苦を受けるということになります。

仏教はこの煩悩を様々に分類しています。除夜の鐘で有名な百八煩悩もその一つですね。

なかでも根本的な分類として「貪(とん)・瞋(じん)・痴(ち)」の三つが挙げられます。これを三毒といいます。

三毒の一つ「貪」とは何ぞや!?

貪(とん)とは貪欲(とんよく)の略で「貪り求める心」のはたらきを示すものです。

例えばお金を手に入れるためなら卑怯なこと、人を騙すことも平気で行ってしまう…こうした「自分にとって好ましいもの/都合のいいもの」を引き寄せ、溜め込む性質が貪です。

その対象はお金や物に限りません。高い地位や名誉、美しい異性といったものも対象となります。

だから仮に世間一般で褒められる行いをしたとして、それによる賞賛や尊敬を求めることも貪に当たります。

三毒の一つ「瞋」とはなんぞや!?

瞋とは瞋恚(しんに)の略で「嫌い遠ざける心」のはたらきを指します。

例えば誰かが不格好だから忌み嫌いあざ笑う…こうした「自分にとって不快なもの/人」を遠ざけるはたらきを瞋と呼びます。

瞋は怒りの心に直結し、我々の心を熱悩(怒りの感情でイライラ)させ、それが遠因となってさらに悪い行為を行う原因になるとされています。

たとえそれが世間的に妥当とされる事柄でも(犯罪者を糾弾する等)、それが怒りによる行動である限り、我々の悩み苦しみの元となりえます。

貪が「自分の心にかなう」ものを求めるのに対し、瞋は「自分の心にかなわない」ものを遠ざけるという真逆の性質を持ちます。

三毒の一つ「痴」とはなんぞや!?

痴とは愚痴(ぐち)の略で「物事のありさまを知らないこと」を指します。

これは仏教の説く真理(諸行無常、諸法無我など)や、ものごとの本当のありさまを知らないこと、迷うことを意味します。

痴は別名「無明」とも言い、光ささず暗闇の中を迷っている風にもたとえられます。

真理の光に照らされることがないから、自己中心的な判断や誤った行動をとってしまう。いわば全ての煩悩の根源だと言えるでしょう。

仏教の説く智慧とは世間一般の知性とはまったく違うもの

痴を「知らないこと」と言いましたが、これは世間でいうところの「物知り・賢い」という基準とはまったくことなるものです。

どんなに高い学歴や優れた頭脳を持っていても、それを勝ち誇り人と争いばかり起こしていては煩悩の虜となったままです。

逆にどんな平凡な人であろうと、柔和で貪欲・瞋恚に囚われない人もいます。

ここの所から仏教の説く智慧の性質がわかるかと思います。

善業と言えど必ずしも三毒と無縁とはいえない

さて、貪瞋痴=三毒について見ていきましたが、たとえ世間一般で言われるところの「善い行い」をしていても三毒と無縁とは言えません。

地位や名誉を求め「いい人」だと思われたい…こうした気持ちから善業を行うこともありえますよね?

自分の評価や他人からの敬意を求めることもまた「貪りの心」の一つの表われでもあります。

だからこそ逆に自分の善行を断られたり、あるいは無視/評価されなかったりすると、

「親切にしてやったのに!」と瞋恚の感情が湧きあがり、

「なぜ理解してくれないんだ!」と無明に悩み苦しむことになります。

ニヒリズムと善/偽善

ただし、欲を持って善業を行うことが必ずしも悪いわけではありません。

たとえば自分の行いすべてに「これは下心からくる行動では…」と疑いだすと何もできなくなってしまいますよね?

同じように「あなたの行動は真心によるものではない」と他人を批判ばかりしていると、自分では何もしない/できないニヒリズム(虚無主義)に陥ってしまいます。

我々はそもそもブッダではないのだから「完全に無私な行い」を求めても仕方ないわけです。

善い行いで得られる名誉や称賛、評価を極端に追い求めるでもなく、かといって全くの無私を(特に他人に)求めるのでもない「中道」的な立場が必要かと思います。

自分の中の三毒を自覚するのが大切

ということで今回の話をまとめると、

・苦の発生する仕組みは三道(惑業苦)で表される

・惑は煩悩(クレーシャ)とも言い、その代表的な分類が三毒

・三毒は貪・瞋・痴の三つで表される

…ということを見ていきました。

我々の心には抜きがたい「貪瞋痴」の三毒が存在しています。しかしそうしたあまりよろしくない心のはたらきが自分の中にあること、それを知ることが大切なわけです。

ネットなどを見ると「自分が正しいんだ」と怒り狂う人々をよく見かけますよね?

人はみなそう思いたいのです。自分の中の嫌な部分を見つめたくなどないわけです。

しかし自分のそうした部分から目を逸らすのも、痴=無明の一つと言えるかもしれません。

こうした煩悩が目を曇らせ、行動を誤らせ、そして苦を生み出す原因となるのですな。

ってことで今回はここまで!!ではでは~(*´▽`*)







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