業(カルマ)って何?因果と仏教、業の関係を徹底的に説明!!




やあ、天狗堂です。

前回の悩みの原因は○○!?仏教が見る苦の原因「三道」と「三毒」では、

・輪廻することは「苦」である

・苦は「惑・業・苦」という順番で発生する(三道)

・三道の中でも根本にあるのは惑(煩悩)であり、この原因を断てば結果(苦)も断滅する

・惑のもっとも有名な分類は「貪・瞋・痴(三毒)」

という順番で、主に惑(煩悩)について見ていきました。

今回は三道の続きとして「業」についてご紹介します。「苦」の直接的な原因となる業ですが、仏教では初心者が理解するための入門編…的な位置づけでもあります。

ここらへんも含め詳しくご紹介しましょう。

そもそも業ってなんだろう?

「業が深い」「先祖の業による因縁」みたいな話ってよく聞きますよね。

こうした話から、業ってなんだか恐いもの…みたいに思う方もいるかもしれません。

(実際には仏教は先祖の祟りを説きませんが)

業はサンスクリット語でカルマンと言い、行為や行動といった意味を持つ言葉です。

私たちが風呂に入ったり、野球をするのも広い意味での業なのです。

表の行為と残存エネルギー

ただし、仏教で業といった場合、

①行為そのもの

②その行為によって発生する残存エネルギー

の二つの意味がほとんどです。

ある行為をすればその力は我々の心にとどまり続ける。その心に溜まった潜在エネルギーが将来に苦楽の影響をもたらす…という考えです。

例えば殺人を犯すのは①の行為ですが、殺しという極めて力の強い悪業の残存エネルギー②は犯人の心にとどまり続け、それが将来的に苦の種となるわけです。

仏教では①の行為そのものを表業、②の残存エネルギーを無表業と呼んでいます。

善業は善業を助け、悪業は悪業を助長する

ところで無表業(残存エネルギー)にはある特徴があります。それは、

・善の無表業は悪の無表業を妨げ、善業を助ける

・悪の無表業は善の無表業を妨げ、悪業を助長する

というものです。

例えば毎日小さな善いことをし続ければ、心は次第に穏やかな気持ちになり、さらなる善業を積みたいと思うはずです。

逆に万引き等の小さな悪業を積み重ねていけば、心の中は悪の無表業で満ち、もっと大きな悪事に手を染めることにつながっていきます。

無表業にはこのように、善悪両方のフィードバック効果があると言われています。

例えば、小さな親切を行うにも最初は勇気がいるでしょう。「格好をつけてると思われないか」なんてね。

けれど、それを続けていくうちにそんなことは気にせず、自然と親切な行動を起こせるようになるでしょう。

こうして無表業は、その人の後天的な性格を形成していくのです。

業は仏教のオリジナルではない!?古代インドと業の思想

さて、この「業」という思想ですが、実はこれ仏教のオリジナルな思想ではなく、お釈迦様が言い出したものでもありません。

業思想は釈尊在世当時の古代インドで一般的だった考え方で、仏教もまたこれを「一応は妥当だろう」として取り入れたのです。

この業という発想がどうして生まれたのかについては、仏教以前の古代インド社会を見ていく必要があります。

アーリア人とバラモン教の時代

紀元前1500年ごろ、中央アジアからインド亜大陸に「アーリア人」なる民族が侵入し定住します。

その後彼らは土着の文化を取り込みつつ独自の文明を築いていきます。

(このあたりのことはバラモン教とアーリア人、カーストの時代をご覧ください)

そしてヴェーダの時代(紀元前1500~1000年ごろ)からブラーフマナの時代(紀元前1000~800年ごろ)には「神々を祀ること」が重視されました。

このいわゆる「バラモン教」は自然神を崇拝していました。

自然神とは雷や嵐、川や山といった自然そのもの、あるいは約束や愛、賭け事といった人間の営みを神格化した存在です。

これら神々の恩寵によって、豊穣や人間の幸福がもたらされる…と考えたわけですね。

えっ…私の人生なぜうまくいかないの!?

ところが、いくら神様に祈っても問題が解決しない…という事例が発生します。

「私たちの信仰心が足りないから…?」

「いや、そもそも物事は本当に神々がつかさどっているのか?」

「なるほど…もしかすると別の原理があるのかも!」

ってなわけで、「神々が吉凶をつかさどる世界観」から離れ、新たな原理を模索する人々が現れます。

未来の物事は人間の行いにより左右される=業思想の出現

こうした模索の中から「もしや人間の吉凶は過去の行いに左右されるのでは?」という考えが出現します。

これが業の思想に発展するのは紀元前800~600年ごろ、ウパニシャッドの時代と呼ばれる時期でした。

梵我一如

この時代に成立した哲学によれば、人間の内面には「我(アートマン)」と呼ばれる不滅の魂のようなものがあり、一方で宇宙には根本原理である「梵(ブラフマン)」と呼ばれるものがある、と考えられました。

そして我は本質的に梵と同じである、とされています。

ところが人間はこの原理に気づかないため人間は迷い苦しむのだ、だから梵と我を一致させるために修行を積まねばならない…これがウパニシャッドの哲学「梵我一如」です。

こうしてウパニシャッドの時代は、以前からの神への信仰、そしてこうした哲学とが併存する時代でした。

釈尊の時代と業・輪廻・解脱

こうした哲学が広く知れ渡った結果、お釈迦様の登場する時代(紀元前500~300年ごろ)には、業と輪廻、解脱はセットで語られるものとなっていました。

ですから釈尊、そして仏教もまた、当時のインド社会で一般的だったこの業説を「常識的で穏健な説」として取り入れました。

しかし仏教はこの「業説」が持つ弱点を指摘し、一部修正したうえで取り込んでいます。

このあたりは後述をご覧ください。

釈尊の同時代人

さて、お釈迦様の時代にはインド社会も発展し、様々な思想家(自由思想家)が登場します。

この中には正統的なバラモン教を批判し、業を認めない者も現れます。

彼らの主張を分類すれば、

・業はあり、宿命もある

・業はあり、宿命はない

・業はない、宿命もない

これを図にすると以下のようになります。

この内、Aの立場を突き詰めたものが「強い業論」です。人間の運命はすべて前世の行いによって決定されているのだ…とする立場です。

次にBは「業を否定した宿命論」とでも言いましょうか。すべては宿命によって決まっていて、人を殺そうがものを奪おうが何も変わらない…とする立場です。

そしてCは「すべては偶然で成り立っている」という主張です。何を行ってもそこに善悪はない。すべては偶然だから何を行っても他に影響は与えない…とする発想ですね。

これらの思想は人間の努力や、自らの生き方を考えたり是正することを無意義である…と考えました。

こうした思想家たちは、

「輪廻も業もないさ!気持ちよく生きよう!」

「業がなけりゃ善も悪もない。人を殺しても善も悪もない」

「すべては宿命。我々は苦しみの後に死すのみ…」

といった様々な教えを説いて回ることになります。

完全なる宿命論的な業説では善悪そのものが相対化されてしまう

ですが、例えばAの立場ですと過去の業によって現世のすべてが決定されるということになり、するとこの世でなす善業も悪業も「決定されたこと」になってしまいます。

つまり善も悪も自分の意志ではないということで、業は無意味なものになりかねません。

またすべてが偶然だと考えるなら、どんな善悪も意味をなさないことになり、人間は自由ではないことになってしまいます。

お釈迦様はその点を批判し、

「宿命/偶然論も業のあるなしも、突き詰めると人間の自由意志を認めないことになっちゃうよね。

そりゃさ、運命的な力に翻弄されることはあろうけど、人間やっぱ努力したり自分を高めることってできるわけよ。

ってことでウチでは極端な方針は取らないよ。

ウチの基本は中道。偶然論にも宿命論にも寄らないし、業の思想は…まぁ『弱い業論』くらいにとどめておく。

だってさ、人の悪口を言ってばかりだと孤立するのは当たり前じゃん?

実際は因縁なんだけど…信徒さんにそこまで言ってもアレだから、とりあえず『業はあるよ』って説明してるんだ」

と主張しました。

つまり仏教は、その教えの入門編として業説を説き、善をなし悪を退けることを推奨したのです。

業の分類による区分け

さて、業の歴史的展開について見ていきましたが、お次は「分類による性質」を見ていきましょう。

仏教は業をいろんな角度から分類していますが、これを理解することで業の持つ性質が明らかになっていきます。

価値からの分類 三性:善・悪・無記

仏教では業を「その価値」に基づいて、善・悪・無記の三種に分類します。これを三性と言います。

善:現在と未来に(自分や他者に)利益を与える行為

悪:現在と未来に(自分や他者に)苦を招く行為(不善とも呼ぶ)

無記:善でも悪でもない行為。我々が日常に行う一般的な動作

有覆無記と無覆無記

中でも無記は「有覆無記(うぶくむき)」と「無覆無記(むぶくむき)」に分かれます。

有覆無記とは善でも悪でもないけども、仏教的な修行を妨げる性質のある行為です。

厳密に言えば我々の日常の行為ほとんどに当てはまりますが、わかりやすい例では「楽しくお酒を飲む」などがこれに当たります。

(もちろん酔って他人に絡んだり、身体を壊すほどの暴飲は悪業に当たります)

これに対し無覆無記は、自己中心性のない行為を指します。仏教的な視点から見て修行を妨げない性質の行為、とも言えるでしょう。

われわれ人間は悪でも善でもない「無記」

よく「人間の本性は善か悪か?」といった問いがありますよね?

仏教の立場からすれば「われわれ人間(生命すべて)は、無記なる存在だ」ということになります。

つまり悪いことをしても、善いことをしても、それらの行為は心の中で「無表業」となって蓄積されますが、それによって存在自体が善悪に染まるわけではない…ということです。

どんな悪行を行おうとその存在自体が悪になるわけではなく、その時点で悪(苦をもたらすこと)を避け、善(自分にも他者にも利益を与える)を行おうとすれば、それは可能である。なぜなら我々の存在は「無記」であるからだ…。

これが仏教の善悪観です。

有漏・無漏

三性の次は「有漏(うろ)」「無漏(むろ)」による分類です。

漏とは煩悩のことを指し、煩悩の伴う行為が有漏、煩悩の伴わない行為が無漏にあたります。

無漏智と有漏智

有漏/無漏の分類はその知恵にも適用されます。

煩悩のある人間の世間知のことを有漏の知恵、そしてすべての煩悩から離れた智慧を無漏智と呼ぶわけです。

そして善悪と有漏/無漏の関係を見てみると、

・悪には有漏しかない

・善には有漏の善、無漏の善の二つがある

ということになります。

悪業の素は煩悩からなりますので、これは当然ですよね。その一方で、

「ああ、この子は可愛いなぁ。やりたいなぁ!」

という下心から親切にしたとしましょう。

その場合も結果として「自分と相手の」苦が減少し、双方の利益になったとしたら、それは有漏善ということになります。

(もちろん相手の意志を無視した行いは悪業となりますが…)

このように有漏善とは、善には違いないけども「貪瞋痴」の煩悩から離れていない善行を指します。

有漏善は悪へつながることもある

有漏善は煩悩から離れていない善ですから、それは行き過ぎれば傲岸不遜、独善的で自分を正しいと信じて疑わない人格へつながる場合もあります。

例えば善いことをした、マナーを守った。こうした善行はあながち悪いものではありません。

一方で「あの人はマナーを守っていない。人間の屑だ!」という優越感につながれば、それは自分の煩悩を増やす行為に他ならないのです。

これに対し無漏善とは「煩悩が伴わず自己中心性もない善」を指します。

業が発生する場所による分類

業の分類はまだまだあります。ここでは行為の内容的な分類として「思業/思己業」、「身口意の三業」をご紹介します。

思業と思己業

私たちが脳(心)で思うこと、考えることもまた行為の一つです。

ですから仏教では、物事を思う心の働きと、それが実際に行動に移されたものの2つに行為を分類します。

前者の心に思うこと、精神のはたらき等を「思業(しごう)」と呼び、後者の外部に影響を与えた行為を「思己業(しいごう)」と呼びます。

例えば誰かを憎み、嫌がらせをしようと考えたとします。

この時、誰かを憎む、嫌がらせをしようと考えることは思業です。そしてそれが実際に行動に移されたならその行為が思己業となります。

身口意の三業

あらゆる行為は次の3つに分類できます。

・身業=身体的行為。歩く、食べる、人を助ける/傷つけるなど

・口業=言葉による行為。暖かい言葉で励ましたり、冷たい言葉で傷つけるなど

・意業=心に思う行為。親しみや愛情、憎しみや軽蔑など

この3つの働きを総称して「三業」と呼びます。

思業、思己業の観点からすると、身業、口業=思己業に、また意業=思業に分類できます。

例えば、雨に濡れる人に傘を貸してやるのは身業ですが、傘を貸してあげようと考えたことは意業、その際に暖かい言葉をかけたなら口業となります。

ですから、例え困っている方にあなたができることが何もない…としても、心でその人の幸せを願うこと、あるいは言葉によってその人を励ますこともまた善行のうちに入るというわけです。

(もちろん逆のパターンもありますが)

そして仏教では「意業(心で思ったこと)こそが最も重い」と考えます。なぜならあらゆる行為は「まず先に心の働きがあって→身業や口業に表現される」からです。

なぜ意業がもっとも重いのか…その理由は「私たちは意識せずとも人を苦しめてしまうことがある」からです。

例えば車の事故で人を傷つけてしまった。その場合確かに他人に苦を与えたことにはなりますが、だからといって「人を傷つけてやろう」と思って事故を起こしたわけではありません。

このように「悪意を持って人を傷つけること」と「不慮の事故で人を傷つけてしまう」ことはまったく別の性質を持ちます。

ですから仏教では行為の結果よりも、その動機を重視する立場であると言えます。

社会的視点と個人的視点による分類。共業と不共業

業の分類には「多くの人や生物に共通する業」と「個人的な業」があります。

人間は社会的な動物ですので、行為もまた個人単位で行われるだけとは限りません。

国単位で戦争を行う、共同で農作物の刈り入れを行う、税金で新たな橋を建設する…これら社会単位で行われる行為が共業(ぐうごう)です。

逆に個人的な楽しみや悪事をはたらくことは不共業(ふくごう)と呼びます。

業の報いの時期による分類。順現業・順生業・順後業

続いては「順現業(じゅんげんごう)・順生業(じゅんせいごう)・順語業(じゅんごごう)」ですが、こちらは業による報いが生じる時期に合わせた分類です。

・順現業→この世で生じた行為の報いをこの世で受ける業。つまり自分の行いを自分で受ける「因果応報」と聞いて最もわかりやすいのがこのパターンです。

・順生業→この世で生じた行為の報いを次の転生先で受ける業。いわゆる「カルマ」のイメージに最も近いのがこちらです。

・順後業→この世で生じた行為の報いが、次の次の転生以後で受けるパターン。輪廻は延々と続くものとされているので、カルマもまた次の生、その次の生へと受け継がれると考えられています。

これらをひっくるめると「三時業」と呼ばれます。いつ報いを受けるか定まっている業…という意味で「定業(じょうごう)」とも呼ばれます。

それに対して、楽にしろ苦にしろいつ報いを受けるのかわからない業は「不定業」と呼ばれます。

この順現業、順生業、順後業に不定業を足して「四業」と言います。

業の働き方

俗に悪いことをした人が苦境に陥ると「因果応報だ!」などと言われますよね。

ですがこれは本来悪い意味の言葉ではありません。

ここでは「因果応報」「自業自得」「廻向」の3つのキーワードをもとに、業のはたらき方について見ていきましょう。

因果応報

因果応報には何やら暗~い響きがありますよね。時には「先祖の犯した罪による因果応報だ!」なんて使い方もされるようです。

ですが、因果応報は本来中立的な言葉で「善悪の行為にはそれに応じて結果もあるよ」という意味を持ちます。

その原則は「善因楽果」「悪因苦果」です。

これはつまり善いことをすれば楽の結果がもたらされ、悪いことをすれば苦の結果がもたらされる…という意味です。

善因善果、悪因悪果、ではない

ここで気を付けてほしいのが「善因を行ったからといって善になるわけではない」ということです。

善因の報いは楽果(心が楽になる)であり、悪因の報いは苦果(心が苦しくなる)です。

悪行をすると、その当人は苦の報いを受けますが、それでもその人自体は「無記(善でも悪でもない)」です。

逆に善いことを行っても、その存在はやはり「無記」です。

つまり善いことをしても存在は無記なのだから、何かのきっかけで悪行を行うこともありうる…というわけです。

自業自得

次に自業自得という言葉ですが、これには注意が必要です。

自業自得は「自分が行った善悪の報いは、原則自分の身に降りかかる」という意味です。だから他人に結果がもたらされることはありません。

しかし自業自得という言葉は「未来により良い心の平穏、魂の幸福」を得るために、悪を防ぎ善を行うことを推奨するための言葉です。

ともすれば自業自得は「今お前が困窮しているのはお前の行いのせいだ!!」という自己責任論的な意味で使われがちです。

ですが、そうした用例は人を傷つけ苦しみを生む悪業そのものだと考えると、自己責任論的な使い方が間違っていることがわかるでしょう。

釈尊は「苦楽は縁生だ」と説いた

お釈迦様は「苦楽はどうして生ずるのか」という弟子の問いに、

「苦楽は縁生である」

と答えています。

これはつまり、苦や楽の結果も様々な条件で成り立っているという意味です。ですから一つの善行や悪行が、ただちに楽や苦の結果となって返ってくるわけではない…ともいえるわけです。

自業自得はあくまで「指針」である

このように、自業自得は仏教において「善いことをなし、悪行をやめましょう」という指針的位置づけです。

前述したように、仏教は宿命論的な世界観を否定し「人間の努力」が未来を切り開くと考えています。

神の意向によるものでもなく、まったくの偶然でもなく、人間の意志によって未来は変えられる…という思想から「因果応報」は語られるべきなのです。

廻向

最後に廻向ですが、これは因果応報、自業自得の例外に当たります。

つまり善業に関しては、それを積んだ者でなく他人に楽果を振り向けることができる…とするものです。

あるいはそれを楽果ではなく「悟りの完成」に振り向けることもできます。これも廻向です。

その廻向によって楽果を振り向けられるのは、三界六道に住む生き物すべて(衆生)です。

自分の善行の結果を他人の(涅槃や解脱とは関係ない)楽果に向けることを衆生廻向(しゅじょうえこう)、一方でそれを悟りの智慧を獲得するために振り向けることを菩提廻向(ぼだいえこう)と言います。

さて、しかし自分の善を他人に振り分けることはどうやったら可能なのでしょう?

それは「心の中で『○○に幸せがありますように』と願うこと」ただそれだけです。

例えば「私がお経を読誦した報いは、亡くなった○○のために廻向する」と心に誓うことで、結果はそちらへ向かう…と言われています。

最後に重要な点が一つ。廻向は善業だけにしか適用されません。悪業を積みつつその報いは他社に振り向ける…という都合のいい話はありませんのでご注意を!!

仏教では業の思想はどう扱われているの?

さて、これまで見てきた通り仏教で説かれる業は「何かドロドロした宿命のようなもの」とはずいぶん違うことがお分かりいただけたかと思います。

しかしなぜ仏教ではこのような変則的?な業の扱い方をしているのでしょうか。

それを知るためにはまず「仏教は段階的に教えを積み上げていく」宗教であることを理解することが必要です。

入門編としての業説と「次第説法」

業説は前述のとおり仏教の核心でもなければオリジナルな発想でもありません。

しかし釈尊は、仏教や倫理に不慣れな人のために「あえて入門編として」、善因楽果/悪因苦果や因果応報、自業自得などの教えを説きました。

それが理解したと確認できたなら、次にそれを相対化するような新たな教えを、そしてその次を…そして最後に仏教の核心を説く、という手法を取りました。

釈尊が採った「初心者にはそれに応じた教えを、学習者にはさらなる教えを」という手法は「次第説法(しだいせっぽう)と呼ばれます。

第一段階「三論(施論・戒論・生天)」

仏教の教えの第一段階では施論・戒論・生天論という3つの教えが説かれました。これを三論と言います。

・施論は貧しい人などに施しを勧め、善を積極的になすことを推奨します

・戒論は殺人や盗み、嘘、暴力など、悪業や不道徳な行為をさけることを推奨します

・生天論は施論、戒論を順守するならば、積み上げた善業によって死後天国(仏教の天国はそれでも六道の中にあることに注意)に生まれ変わるという教え

これらは一般社会で生きる人々が「より良い生活と未来」を送るために説かれたものです。

社会には明らかに、未来のことなど考えない人、嘘や騙しを平然と行う人、関わる人を傷つけたり暴力をふるう人が存在します。

釈尊は業説を説くことで「そうした考え方や生き方はいずれ苦をもたらす。幸福になりたければ善業を積み、悪業を退けて生きることが大切だ」と人々を啓蒙したのです。

第二段階。感覚的欲望への戒め

しかしながらこの三論を絶対視しすぎると、これもまた問題が起こります。

三論は結局のことろ「倫理的に生きよ」と推奨するわけですが、行き過ぎれば運命論的な決めつけに陥ったり、飽くなき幸せを求めすぎることにも繋がります。

例えば「これをやっておけば死後の転生先で幸福が得られるだろう」という動機は、結局一種の欲望追及に他ならないわけです。

そこで仏教においてはこの段階で「感覚的な欲望追及への戒め」が行われます。

第一段階で言われたような「幸福の追求」それこそが実は苦の発生原因であり、だからこそ欲望を制御し慎みを持つことが苦の解消につながる…という話になります。

いくら善業を積み、不道徳な行為を避けていようと、人間に必ず訪れる苦難「四苦八苦」は回避することができません。

「自分はこんなにも善い生き方をしていたのになぜ…」

このように「見返りを期待した善業」では問題解決にならないことを指摘する段階です。

第三段階。仏教独自の話

こうして第一段階で善の推奨と悪の抑止を、第二段階で欲望への戒めを理解した者には、次の第三段階の教えが説かれます。

この第三段階こそ、四諦、八正道、縁起といった仏教オリジナルの話となります。

これより先は善業を行うから楽が生じる、悪業を行うから苦が生じる…といった思考を相対化する思想が語られていくわけです。

仏教では業は初歩的な話になる

このように、仏教では門外漢に業説を説きより良い生き方を勧め、入門者には功利的な幸福の追求を止め、欲望を制し慎むことを説いています。

このためお釈迦様のもとには庶民から貴族、王族、他宗教の修行者まで多くの人物が質問に訪れたと言われています。

そして正式な弟子となった修行者には、悟りに至るための中核的な教えを説いたのです。

このように相手に応じて段階を追って理解を促す。これが次第説法という説き方です。

今まで積み上げてきた価値を手放すことが大切

さて、これまでの話をまとまると、

・業(カルマ)は①行為と、②行為の残存エネルギーのこと(表業と無表業)

・善の無表業は悪の無表業を妨げ、善業を助ける。悪の無表業は善の無表業を妨げ、悪業を助長する

・業の思想自体は仏教オリジナルではなく、釈尊の時代には一般的な考え方だった

・釈尊もまたこれを「穏健で妥当な思想」として、独自の観点を加えて仏教化した

・業には三性(善・悪・無記)や有覆無記/無覆無記、思業/思己業、身口意の三業といった分類がある

・業の働き方には「因果応報」「自業自得」「廻向」といった特徴がある

・業の思想は仏教の中核的な教えではなく、「次第説法」の中の入門編に当たる教え

ということを見ていきました。

次第説法ではまず感覚的に分かりやすいことを説き、それが理解され一定の段階に達すると、これまで積み上げてきたものを相対化させるような教えが説かれます。

業の思想は入門編として、悪や怠け心を戒め、善業や努力を推奨することに意味があります。

が、これを絶対視しすぎると単純な宿命論や苛烈な自己責任論にも近づいてしまいます。

このため仏教では「一度掴んだものも、段階を経たら手放すことが必要だ」という意味で、「筏の例え」というたとえ話を説いています。

筏のたとえ

ある旅人が大きな河にさしかかった。そこで旅人は葦や木の枝を集め筏を作り、無事河を渡り終えた。

そこで旅人は言った。

「この筏はたいへん役に立った。これを担いで旅を続けよう」

さて、この旅人は適切な行動をとっているだろうか?

どんな言葉でも、その言葉自体に執着して、その言葉の背後にある本質を知らなければ”毒”になってしまう場合があるわけですね。

業説はある程度は有用ですが、そこに留まらず柔らかく進展していくことが大切です。

今回はこんなところで!ではでは~。







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