やあ、天狗堂です。
「常識やら道徳ってうっとおしいなあ」と思うことってありませんか?
「あれはしてはいけない」「これをすると人から変な目で見られるかも・・・」
・・・なんて囚われて悩んでいるって方は多いんじゃないでしょうか?
■目次
夜の仕事をする人々の苦しみ
たまたま「夜のお仕事」をしてる女性と話をする機会がありまして。
ああいう職業ってのはストレスが多いそうですな。さもありなん。
で、どうしても「稼ぐ→病む→散在する→稼ぐ」というループにハマってしまう方が多いそうなのです。
うーむ・・・・・・なるほど。せっかく稼いでも散財しては意味ないですよね・・・。
欲というのは「生きる力」でもある
まあ、お酒を飲んだり遊んだりってのは悪いことじゃないですよね。天狗堂は酒を飲みませんが、楽しいって気持ちはわからないでもないです。
こうした欲ってのは「生きる力」でもあるわけで、扱い方を間違えなければよいのです。
逆に危ないのは、そうした欲すら無くなった時でしょう。
つまり、あまりに禁欲的になりすぎると物事を動かす「意欲の源泉」みたいなものが枯れてしまうのですな。
欲望の正しい運用法
だからこそ欲望の運用にはしかるべき注意を払うべきだと思うのです。
たとえば、
・素直に、純粋に欲を楽しむ
・余計なものをつけくわえない
・虚しさを埋めるための代用品にしない
といったところを意識することが重要になってきます。
ごちそうを食べて他人のことを考える必要はない
ちょっとわかりにくいかと思うので、「食欲」で説明してみましょう。

たとえば、あなたは今、めちゃくちゃお腹が減っているとします。で、目の前にはごちそうがある、と。
ならば目の前のごちそうを堪能して「ああ、美味しかった!!」と幸せになればいいのです。「生きるっていいなあ!!」と思えばいいのです。
ですが人間、そこに余分なものを付け加えてしまうものです。
・「あいつのほうがうまい飯を食ってる。許せない!」
・「この料理は舌の肥えた俺にはいまひとつ・・・」
・「他人がうらやましがるように写真をとって自慢しよう」
などなど・・・・・・。まぁ、キリがありませんよね。
比較と競争は苦しみの原因
そういうのって結局、「比較と競争」の勝負になってしまうから、最終的には間違いなく自分をすり減らしてしまうのです。どこまでいっても上には上がいますからね。
「ああ、美味しかったなあ!!」というのは自分の中の絶対的な価値観ですよね。自分がそう感じているのだから間違いないことです。
ですが「誰かと比べて美味いものを食べたなあ!!」と考えだすと、人は急に不幸になるのです。

比較と競争はよりよい商品やサービスを創る上で欠かせません。
ですが、それを私的な領域にまで持ち込まなくても人は幸せに生きられますよね?
現代社会は欲望をかきたてるものや機会に満ちあふれています。
それはそれで世の中の正しい姿には違いありませんが、しかし私たちは今一度「欲を捨て去る」のではなく「欲を正しく働かせる」ことに注意を払うべきだと思います。
常識、分別、自己否定
さて、夜のお仕事をしている女性の話に戻りますと、おそらく彼女はかなり「常識の束縛」みたいなものが強いんじゃあないかと思います。
つまり常識人であるがゆえに、今のありのままの自分を認められない⇒だから悩みがつのる、という状況なのでしょう。
常識的過ぎて自分を認められない人たち
要は自分のことをちゃんと肯定できないということです。
・なにをやるにしても「自分は間違っているんじゃないだろうか」と思ってしまう。
・楽しかったはずなのに、ふとひどく虚しい気分になる。
・「あの時こうしていれば・・・・・・」といつも考えている。
これってでも、誰しも多かれ少なかれ持つものでもありますよね。
分別の本当の意味
ところで「常識」は「分別」ということもできますが、実はこの言葉、仏教ではあまりいい意味に捉えられてはいないのです。
「分別」を辞書で引くとこうあります。
-
物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。また、そのような能力。 「事態を-する」 「思慮-がある」
-
〘仏〙 虚妄である自他の区別を前提として思考すること。転じて、我がにとらわれた意識。 「 -みだりに起こりて、得失止む時なし/徒然 75
ここでわかるように、世間一般で「良い」とされている分別(常識)が、仏教の解釈としては「悪い」ものとされているのですね。
比較や競争から解き放たれることが仏教の理想
ここにある「自他の区別」とは、簡単にいうと「自分はこれだけしかもっていないのに、あの人はあんなにたくさん持っている・・・・・・」というような意味があります。
これって、食欲の例えにも出てきた「比較と競争」ですよね? こうした他人との比較を前提にものごとを考えるから、人は不幸になっていくのです。

逆に言えば、「私」と「他人」の区別をつけず、あらゆる視点から自由に物事を観ることができる「無分別」を仏教では理想としています。
仏教の教えは時に、世間の道徳や一般常識と真っ向からぶつかることもあり得るわけですな。
まあ、常識やら道徳ってのは、究極的には他人が勝手に決めたルールなわけです。必要っちゃ必要ですけど、そこに囚われてもつまらぬものだと思うのですよ。
時には「そんなの知らんよね」と無視することも必要ではないかと天狗堂は思います。

今回はこんなところかな。
ではでは。