me too、セクハラ、大炎上、について考えてみた

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はじめに me too運動からの大炎上

やあ、天狗堂です。

世にはme too運動というムーブメントがあるらしいのですが、最近(2018年の年の瀬)たいへん混乱した状況にあるようです。

普段はあまり関心のない時事問題ですが、しかし今回の件には少し引っかかるものを感じました。

ですのでこれは個人的な推論、あるいは憶測です。

社会に対して何かを訴えたいわけではないことにご留意ください。

セクハラの告発からすべては始まった

きっかけは元電通社員であった女性作家が、過去に受けたパワハラ、セクハラを告発したことです。

この告発を受けて、すでに独立して会社を立ち上げていた加害者男性は謝罪、会社の代表の座も退いたということです。

女性の話を聞く限り、パワハラ、セクハラの内容は相当なものであり、これがまかり通る会社というものに呆れてしまいます。

まあ、それなりの社会的制裁をうけたようですし(ネット上には永久に名前が残ります)、この件に関しては決着がついたのかな、よかったな、と思っていたのです。

風向きが変わり始めた

ところがそこで事件は終わりませんでした。

告発した女性の過去のツイッター投稿が問題視され、それが原因で大炎上してしまったのです。

そこで問題とされたのは「童貞」という言葉に関するツイートでした。

ここで炎上していく過程を説明することもできますが、しかしどう書いても何らかのバイアスがかかってしまうように思います。

経緯について詳細を知りたい方は他のサイトを参考にしてください。

告発者の女性はなぜ「そこ」にこだわっていたのか?

さて、この問題はいろんな切り口から語れることだと思いますが、ここではあえて「告発者である女性が『童貞』というワードに執着した個人的な理由」を考えてみたいと思います。

まず、人の内面を勝手に推測するのは趣味のいいことではありません。

ですが、ここにはとある重要な問題が横たわっているように思えるのです。

天狗堂の知る範囲で、今回の件に関して「社会的側面」から批評されることはあっても、「彼女自身は何を考えていたのか」について語られることはなかったように思います。

ですので、そこを掘り下げてみたいと思います。

今回の件で一番不可解だったこと

誰もが誰をも傷つけあうような無残な状況になった一連の流れですが、その中でどうにも理解しがたい点があります。

それは「なぜ告発した女性は、自らの『童貞』というワードに異常なこだわりを見せたのか?」という点です。

おかしなことです。

あれだけ頭の回転が速く状況を分析する力に長けた女性が、ここではあまりに合理的でなく混乱した行動を取っているように映ります。

功利的に考えれば悪手だったといえる

彼女の経歴から考えても、もっと自分に有利になるよう事が運べたはずでしょう。

童貞を侮蔑しているようにもとれるこのツイートに対し「自分も加害者に似た論理を振りかざしてしまっていた。申し訳なかった」と一言あれば、事態はここまで悪化しなかったはずです。

それどころか彼女は日本におけるme too運動の旗手として、自分のブランド価値を高めることができたと思います。

合理的に考えれば、これが一番の最適解でしょう。

けれど彼女はなぜか激しい拒絶をみせた

しかしながら、事は真逆の方向へ進んでしまいました。

ポイントとなるのは彼女の、

  • 童貞という存在が好き(好ましい)と思っていたから一連のコンテンツを書いた。
  • 誰かを傷つける気はなかった。

という主張です。

これに関しては人によっていろいろと意見のあることでしょう。

人生はじつにいろいろあるものです。

何らかの事情で他者と性的な関係を築けなかった人にとってみれば「ふざけんな!」と思っても、それは当然だと思います。

ですがここでは「彼女は(少なくとも彼女の主観において)本心から童貞を好ましいと思っていた」という前提で論を進めたいと思います。

彼女が本当に伝えたかったことは何なのだろう?

この前提に立って考えてみると、さらに二つの疑問が浮かびます。

それは、

  • 「一連のツイートやコンテンツは、炎上と引き換えにしてでも守るべきものだったのか?」
  • 「童貞を馬鹿にしているようにもとれるツイートやコンテンツから、本当は何を伝えたかったのか?」

ということです。

ざっと見た限りでは一連の童貞ツイートやコンテンツに、炎上と引き換えにするほどの価値があるとは思えません。

ところが彼女は一貫して「悪意があったわけではない」と訴え続けた。そこには妙な切実さがあったように天狗堂は思うのです。

この落差がなんとなく気にかかります。

童貞という言葉に仮託されたもの

まったく根拠はないのですが、ここで

彼女は自分が切実に求める「何か」を、童貞という言葉に仮託した

という仮説を立ててみたいと思います。

そうであるならばおそらく、

  • 彼女は無意識のうちに「何か」の重要性に気づいたが、それを直接語る言葉を持たなかった
  • そのため「童貞的なもの」というワードに「何か」を仮託した
  • しかしながら語るフォーマットが間違っていたために、世の「童貞的な立場」から批判をうけた
  • 彼女自身がその構造に気づいていないため、切実な「何か」を批判されているのだと思い激しく抵抗した

ということが言えると思います。

彼女のフォーマットは「電通・TV的なもの」

実際、彼女の「童貞的なもの」の語り口は、作家というには極めて乱暴で雑な表現でした。

それは流行りの服やグルメを紹介する語り口とよく似ています。

いわば「次々と消費していく語り口」とでもいうのでしょうか。

少し飛躍しすぎかもしれませんが、彼女の出身である電通や、あるいはTVの世界の文脈から、童貞という「人の性や生」に関する事柄が語られていたわけです。

こうした語り方を「電通・TV的フォーマット」と呼ぶことにします。

頭の回転が早いがゆえに「電通・TV的フォーマット」で書けてしまった

見たところ、彼女は頭がよく有能な人のようです。

ところが、そうして「電通・TV的フォーマット」でサクサク書けてしまっていたがために、それ以外のフォーマットを必要としてこなかったのではないでしょうか。

これはものを書く上でとても怖いことです。

「人は文体によって思考する」という言葉があります。

ある文章を決まった文体で書くことは、それ以外の思考の可能性を捨ててしまうことにもなりかねません。

特定の集団の構成員(政治、宗教、その他いろいろ)が、規定されたかのように似たような文章を書くのはそれが理由です。

自分自身が「電通・TV的フォーマット」の世界で生きてきたために「そこに回収されないもの」に関心が向いたのではないのか?

告発者である彼女は「電通・TV的フォーマット」の中で表現していた、という仮説を立てました。

(まあ、最初から仮説だらけなのですが・・・・・・)

ここでふと気がつくのは、告発された側である加害者の男性もまた「電通・TV的フォーマット」の世界で生きる人間だった、ということです。

もしかすると、加害者の男性は彼女にある種の「呪い」をかけたのかもしれません。

そして彼女は無意識のうちに「呪い」に縛られて自分を規定してきた。

だからこそ、そこに回収されえない「何か」に関心が行ったのではないかと思うのです。

そして、「何か」を象徴するものとして仮託されたのが童貞であり「童貞的なもの」だったということなのでしょう。

ここまでのまとめ

途中ですがここで時系列に沿って、これまでの考えをまとめてみます。

  1. (電通時代) セクハラ・パワハラによって、加害者男性が告発者の女性に「電通・TV的なもの」を埋め込んだ。「呪い」の発端。
  2. (電通退職後) 退職したものの彼女の思考の根底に「電通・TV的フォーマット」は残り、またそれを基盤に仕事ができてしまうため「呪い」は継続した。
  3. (セクハラ告発前) 「電通・TV的フォーマット」はいわば自分を傷つけたものであると同時に、自分自身の基盤ともなっていた。その相反した矛盾が「そこに回収されえないもの」に関心を向かわせた。そこで「童貞的なもの」に注目し、言動を行ってきたが、それを書くフォーマットはやはり「電通・TV的フォーマット」のままだった。呪いの潜伏。
  4. (セクハラ告発後) 自分の言動が「童貞を侮蔑するものだ」として弾劾される。しかし彼女は(主観的には)侮蔑とは真逆の意図で「童貞的なもの」を扱っていたため、激しく困惑する。その思いが「悪いとは思っていなかった」「応援する立場だった」というような主張を生み、激しく批判され、自己破壊的な行動を取らせた。「呪い」の顕現。

というところでしょうか。

「電通・TV的なもの」と「童貞的なもの」

あくまでも個人的にですが、全体の構造が見えてきたように思います。

(というより、こう考えでもしないと辻褄が合わないといいますか・・・・・・)

では、その先を考えましょう。問題は「童貞に仮託されたもの」とは何か、ということです。

「電通的・TV的なもの」=いくらでも取り換え可能なモノ

これは、逆に考えてみれば「電通・TV的なもの」は「童貞的なもの」ではない、と言えるかと思います。

すでに述べた通り、「電通・TV的なもの」とは、流行りの服やグルメを紹介するような「次々と消費していく語り口」です。

彼女自身、童貞が「流行ってる」と述べていた通り、そこにあるのは「いくらでも取り換えの利く事柄」といった雰囲気があります。

そしてこの立場は、加害者男性が周囲の女性に対し行っていた「お前は(性的にも労働者的にも)取り換え可能なモノなのだ」という態度と共通するものがあります。

取り換えできないものとは何か?

こうした「取り換え可能なモノ」の対極にあるものは何か考えますと、それは「生や性、そして愛の一回性、取り換えの利かなさ」のようなものではないでしょうか。

一回性とはつまり「これは自分にとって切実で、他に代用しようがないものだ」という感覚と言っていいかと思います。

たとえば自分にとって本当に愛する人がいて、相手もまた(主観的には)自分を愛していると感じた時、それよりも上位のスペックを持つ第三者が現れたとして、それは取り換えがきくものでしょうか?

あるいは本当に切実な体験とは、社会や時代の流れが変わったとして「あの体験は全くの無意味なものだった」と位置づけられてしまうようなものでしょうか?

そうではない、と思える感覚こそ「生や性、愛の一回性、取り換えの利かなさ」なのでしょう。

「童貞的なもの」とは「取り換え不能なもの」を指すのではないか?

そして、そうした立場を象徴するのが「童貞的なもの」です。

考えてみれば「子供のころ林の中に落ちていたエロ本を見つけた」という記憶が豊かなものであるのは、そこに「よくわからない世界の秘密に触れる」という一回性が関わっているからなのだと思います。

いくらモテる男性、女性が「取り換え可能な性愛」を積み重ねたとしても、こうした「突然降りかかるような経験」とは質の違うものです。

「わからない」ことこそ、愛を受容する存在基礎

一連の問題の片隅でこんな対話がありました。

ここにある通り「わからないこと」言い換えるなら「ノウハウ化できないこと」こそが性や愛の本質なのではないかと思います。

ノウハウとして語れば語るほど本質から遠ざかるもの

考えてみれば告発者の彼女は、恋愛のテクニックのようなものを得意とする著作家でした。つまりノウハウを提供する立場です。

しかし、そもそも性や愛は本質的にノウハウ化されえないものです。

性や愛をノウハウ的に語れば語るほど、逆説的にそこから遠ざかっていくような感覚が彼女の中にあったのではないか、と推測できます。

彼女の中にそうした感覚があったために「一回性、あるいは取り換えの利かなさ」に関心が行った。ただしその正体が何なのかわからなかったために「童貞的なもの」に仮託した。

というふうに考えるとすべての辻褄があってしまうのです。

ノウハウ化=分別が真理を覆い隠す

話は少しそれますが、ここでいうノウハウ化とは仏教でいうところの「分別」に相当します。

分別とは「あれはダメだよね」「これはこうするべきだよね」という、ものごとを分け隔てて識別するはたらきのことを指します。

仏教の立場では、こうした分別が真理を覆い隠してしまうと考えます。

まさにノウハウ化(分別)を積み重ねるほど、生や性、愛の一回性(真理)から遠ざかってしまうということが言えるかと思います。

かけ違いから問題が決裂した

さて、こういう視点に立ってみると告発者の彼女の言い分も理解できますし、それを批判する立場も納得できるものだと言えます。

彼女が伝えたかったのは「一回性、あるいは取り換えの利かないもの」であったのに、それを語るフォーマットを間違えたために誤解を受けた。もしかするとそこに激しくこだわったのは、自分自身が「取り換えのきくモノ」として扱われた経験が関わっているのかもしれません。

しかし、批判する側にしてみれば「童貞」という性や愛に関するワードを「電通・TV的なもの」のフォーマットで、まさにノウハウ化しているとしか思えなかった。そうであれば罵倒、侮蔑と捉えても不思議ではありません。

このようなかけ違いがあったとするならば、その後の彼女の自己破壊的ともいえる言動にも納得がいくのです。

「電通・TV的フォーマット」にも意義はある

ある意味、すべての元凶となったのが「電通・TV的なもの」なのですが、しかしこれ自体が絶対悪かというとそうとも言えません。

やはり取り換えの利く分野というのは世の中にあって、その分野を語るならばこうしたフォーマットは有効であり意義があると言えるでしょう。

ですが、人生や愛といった分野はこうしたフォーマットで語れば語るほど本質から遠ざかっていきます。

くわえて、「お前はいくらでも取り換え可能なモノだ」という態度は、人間を怪物へ変えてしまう作用があるように思います。

加害者の男性も元をたどれば、そうした「呪い」によって怪物へと変えられてしまったのでしょう。

1つの物語としても読めるのではないか

しかしまあ、こうした視点から眺めてみると、この問題がある種の物語のようにも見えてきます。

物語のあらすじ

主人公である女性は、怪物から呪いをかけられた。

呪いによって心を傷つけられた女性は、その対極にあるものを求めた。

しかし、呪いそのもののはたらきによって、彼女の口から出る言葉は呪いに似たものとなった。

自分の本心とは裏腹に、彼女の言葉は周りを傷つけ、そして自分も傷つくこととなった。

こんな感じでしょうか。なにやらおとぎ話のような原的な雰囲気があります。

こうした物語の結末はどうなるのでしょうね。

おわりに

以上はすべて天狗堂の妄想です。証拠も裏付けもありません。

長々と述べましたが、別に誰かをたしなめたいわけではなく、まして社会に訴えたいことがあるわけでもありません。

さらに言えば、話の中心となった女性さえ本質的には関係ないのかもしれません。

関心があるのはただ一つ、「魔が差した」という時の「魔」とは何か?ということです。

社会的に意義があったはずのme too運動が、誰もが思わぬ方向へ変質していった今回の事例、天狗堂にとっては実に興味深いものであったなあと思うのです。

 

今回はこんなところですかな。

ではでは。







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