名前に秘められた魔術的意味とは!?ファンタジーや歴史から考察してみた




世の中のほとんどのものは「名前」がついていますよね?

たとえばビジネスの分野でもネーミングはすごく重要視されています。

お薬であればロキソニン、正露丸、サロンパス・・・すぐにどんな形、どんな効能があるか頭に浮かんでくるでしょう。

人間はこうした「名前」をつけることで世界を把握してきました。

それゆえに名付けは魔術的な行為であり、「真の名」を他者に知られることは危険であるとする思想が発生したのです。

ファンタジーに見る名づけの魔術

こうした「名前と魔術」の関係を敏感に取り入れたのがファンタジー小説です。まずは名作『ゲド戦記』をもとに見ていくことにしましょう。

そもそもゲド戦記自体が「太古の言葉が魔力を持つ」世界観となっています。

舞台となる世界“アースシー”には神聖文字で表記される「真(まこと)の名前」が存在します。

この真の名を知るものは他者を従わせることができるため、人々はみだりにそれを語らず、日常では通り名を名乗っています。

名前は実際に不思議な力を持つ

真の名を隠し、あえて通り名を名乗る。面白い設定です。

そして実際の世界でも名前は強い力を持ちます。

周りが騒がしい時でも自分の名前を呼ぶ声だけは聞こえた、という経験はありませんか?

どんなにたくさんの情報に囲まれていても、人間ってのは無意識に自分の名を探り当てる能力があるのです。

ですから逆に、噂するのもよく聞こえます。「ヒソヒソ・・・」そこに自分の名前が聞こえた気がすれば「何を噂されているんだろう・・・?」と落ち着かなくなりますよね。

最悪の場合、それが強いストレスとなりノイローゼになってしまうこともありえるのです。

呪いの原理とはこのようなものかもしれませんね。

影の名前はゲド

『ゲド戦記』の中にはさまざまな名づけの魔術がみられます。

主人公の名はゲド。しかしふだん真の名は隠し「ハイタカ」という仮の名を用いています。

そして第一巻。ゲドはとある理由から魔術を失敗し「影」なるものに追われるようになります。

影に脅かされ世界の果てまで逃避行を続ける主人公。ですが最後の最後、ようやく彼は「影の名はゲド」であることを知り、影と和解することに成功します。

自分が呼び出した怖ろしい存在。その正体は結局、自分自身に他ならなかったということです。

竜の名前はなんという?

第三巻でゲドは人間の領域を脅かす竜と対峙することになります。

人間にとってドラゴンは一番の天敵。まともに戦っては勝ち目はありません。

その時もゲドは「竜の真の名」を知ることで、これを従わせることができたのです。

ただのハイタカとして生きる

しかし物語は四巻以降に転調をみせます。

ある事件により魔法の力をすべて失ったゲドは「大賢人」の座を降りて、故郷の島へと戻ります。

以前であれば魔法の力でたちどころに解決できた問題が、力を失ったゲド=ハイタカに降りかかります。

四巻以降の物語は「かつての魔術王ゲド」が「ただの人ハイタカ」として生きるお話であると言えるでしょう。

ハリー・ポッターと名づけの魔術

世界一有名なファンタジー小説「ハリーポッター」シリーズにも、こうした「名づけの魔術」が登場します。

読んだ方ならピンときますよね。そう「名前を言ってはいけないあの人」のことです。

名前を呼んではいけないあの人

「ハリーポッター」シリーズを通して最大の敵となるのが、闇の魔法使いウォルデモード卿です。

彼への怖れから皆が「名前を呼んではいけないあの人」と呼ぶ中、人間界で育ったハリーはそうした文脈を知らず、だからこそヴォルデモードと口にしています。

相手の名を呼ぶこと。それはすなわち「相手を神格化しない」ということでもあります。

こうしてハリー=ダンブルドア軍団の活躍により、ヴォルデモート卿はその存在を絶たれることになります。 真の名を恐れるものに敵対者と対峙する資格はないのです。

千尋が千になったわけ

ファンタジーにおける名前の重要性はご理解いただけたでしょうか?

もう一つ、日本を代表するファンタジー『千と千尋の神隠し』にも重要なシーンが登場します。

主人公千尋は偶然に迷い込んだ世界で「千尋」という名前をとられ、「千」と新たに名付けられます。これ以後、千は不思議な世界の温泉宿に閉じ込められることになるのです。

つまり、千尋は不思議な世界に足を踏み入れたからとじこめられたのではありません。

元いた世界の名前を取られ、新たに名前を付けられたからこそ、そこに囚われてしまったのです。

生まれたばかりの赤子に名前をつけるように、名づけはその人を世界に定着させる働きがあるのです。

歴史から見る名づけの魔術

僧侶が出家時につける名前のことを「法名」と呼びます。

得度の時にいただくこの名前は、二文字で表されることが多いですね。

たとえば最澄、空海、道元、親鸞・・・日本の仏教を代表する僧侶もみな二文字の名前です。

こうした名前はそれまでの世俗を離れ、仏の世界に生まれ変わる象徴的な役目を果たします。

お坊さんは名字を持たない

こうした理由から、僧侶は原則的に名字を持ちません。

現代では不便ですから元の名字を名乗っていますが、昔であれば法名の前に「○○院」「○○庵」「○○坊」など住居の名を当てて代用していたみたいです。

例外的に禅宗は一休宗純」など法名の前につけることもありますが、これは名字とは別物です。

例外は神仏の前

ふだんはこうした「○○院」「○○庵」という名前を使っていました。時代劇などでもよく用いられますね。

ですが、上位の存在である神仏の前では法名をそのまま使うことが鉄則です。

たとえば祈願する時の願文では「今、ここに佛子○○(法名)、ご本尊を崇めたてまつり・・・」こんな感じで呼びかけます。

上位の存在に対しては「真の名」を用いる。これもまた名前に関する魔術的風習と言えるでしょう。

織田信長の名はどう呼ぶのが正しいの!?

「名前には特別な力がある」

こうした発想から俗世でもまた本名を呼ぶことははばかられました。

本名を避ける風習のことを諱(いみな)と呼びます。

たとえば武田信玄であれば、諱は晴信(俗世の本名)、信玄は出家したのちの法名となります。

昔の人は住まいや立場で相手を呼んでいた

ですから織田信長に対し、家臣や領民が「信長様」と呼ぶことは大変失礼なことだったのです。

そこで本名を避けるため「弾正忠」という役職名を用いていました。

他に秀吉であれば「太閤」、家康は「大御所」、信玄は「御屋形」という呼び名が有名ですね。

姓と名字は別物

また、彼らの名字(織田、羽柴、徳川)と本来の姓は別物でした。

姓とは君主から与えられた血統集団を指す名です。歴史上では「源」「平」「橘」「藤原」などが有名ですね。

こうした姓は朝廷に提出する等の最上級の文章のみに用いられました。たとえば徳川家康の本姓は「源」です。だから正式な文章には「源 家康」と明記したわけです。

天皇家に姓はない

姓は君主から臣下の血縁集団に与えられるものだと述べました。

ですから天皇家に姓はありません。

ふだんは帝(みかど)あるいは住まい(○○御所様)などの呼び名で呼ばれていました。

現代でも天皇家に姓はありませんね。これが陛下、殿下、○○宮などと呼ばれる理由です。

欧州では名前が長くなる傾向がある

昔の日本における名前のルールはこのようなものです。一方ヨーロッパでは、「名前が長くなる」傾向があります。

例えばフランツ・ヨーゼフ・オットー・ローベルト・マリア・アントン・カール・マックス・ハインリヒ・シクストゥス・クサーヴァー・フェリックス・レナートゥス・ルートヴィヒ・ガエタン・ピウス・イグナティウス。

これはオーストリアのハプスブルク家最後の皇太子の本名です。

ここからさらに肩書や役職、支配する土地名などが加わるわけですね。 これは由緒ある名前には「支配者たる正当性」がこめられているという発想です。

『豚のいた教室』の危険性

さて、名前にはこうした「魔術的なあれこれの風習」があることを見ていきました。

名前は世界におけるその人の立場を規定するものです。そこに 根源的な深い意味があることを、世界中の民族がなんとなく察していました。

こうした理由から名前のタブーは未だに多いものです。これをよく理解していなかったのが「豚のいた教室」だと言えましょう。

食用の動物に人間のような名前をつけてはいけない

『豚のいた教室』は実際にあった話だそうです。

~小学校のクラスで豚に〇〇ちゃんと名前を付ける。生徒たちは大事に可愛がっていたがそこにはあるルールがあった。豚がいるのは一年間だけ。一年後に出荷し給食で肉として食べる~

というstoryですが、これは呪術的な観点から大変よくないことだと言えるでしょう。

「食べるつもりの動物に人間と同じような名前をつけてはいけない」

これは世界中の民族に共通するタブーです。

例えばモンゴル人は馬や羊をとても大切にします。白い馬、痩せた馬、立派な馬などを示す単語が数十種もあるそうですね。

ですが彼らモンゴル人は馬や羊に人間と同じような名はつけません。

これは例えるならオートバイのような「価値ある財産」だということを意味します。 バイクのことをヤマハの〇〇、カワサキの〇〇という言い方はしますが、「俺のミキちゃん」「私のカケルくん」なんて呼び方はしませんね?

「魔術的カニバリズム」の危険性

食べたり使役するための動物と、人間やペットはしっかりと区別する。これは大切な霊的防御です。

それを理解しないまま「命の大切さを学ぶ」などという名目で子供たちに可愛がらせ、最後に食肉にすることは危険な行為です。

最悪、生や食、性といった「生々しいもの」に対する拒絶感を植え付けかねません。

人間やペットと同じ「名前をつけた」動物を食べるのは、いわば「魔術的カニバリズム」だと言えるでしょう。

食肉業界ではそっけない名前をつける

では職業として畜産を行うプロの場合はどうでしょうか?

たとえば子牛を育てる育成農家では、ペットのような名をつけ可愛がることもあるようですが、最終的に肉として出荷する肥育農家ではまずそうした名前は付けません。

つまり○○一号△△二号、みたいなそっけない名前をつけるのが一般的なようですね。

プロはペットではなくあくまで資産として扱うことで、屠畜の呪術的意味を薄れさせているとも言えるでしょう。

名前はその人を規定するもの。取り扱いにはご注意!!

さて、名付けに関する魔術的意味はご理解いただけたでしょうか?

これはあだ名であっても同じです。 あだ名で呼ぶことは、その人との「特別な関係」を示すこと、そしてその人を「無意識に規定する」意味があります。

現在の小学校では同級生を〇〇さん、と呼ぶよう指導されているみたいですね。

その方針が悪いわけではありませんが、しかしあだ名で呼ぶことによる「子供時代の世界性」が失われるのはもったいないことのようにも思います。

(カンちゃん、マー君、みっちゃんなどと呼びあっていた時代があなたにもあったんじゃないでしょうか?)

そして、この魔術的力は名前だけに限りません。

自分の子どもに「バカ」「間抜け」などと繰り返し規定していると、「僕はバカなんだ」という呪いを植え付けてしまいます。 その結果、本来の能力よりも自分を低く見積もってしまうのです。

キレイな言葉を使い、子供を褒めることは魔術的な祝福であり、ゲームでいうところの「バフ」です。

結果、子供は自信を持って物事にあたり、たくさんの経験を積むことができるのです。 子どもの良いところは褒めてやりましょう。根源的なところで成長します。

ではこんな感じで。

終わりっ!!







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