やあ、天狗堂です。

■目次
- 突然ですがみなさんは「狐憑き」という言葉を聞いたことはありますか?
- 狐憑きをどう捉えればいいのか? どう受け止めればいいのか解説していきます
- まずは基本的な枠組みを説明します
- では狐憑きの正体について見ていくことにしましょう
- トランス状態に入れることは、一種の才能でもあります
- 集団失神事件とシャーマン
- 誰もが持っている、そして他の表現と変わらないもの
- 仏教と変性意識、トランスとの関わり
- いったん立ち止まってまとめてみましょう
- 歴史的にシャーマンの才能がどう扱われてきたのかを見ていきましょう
- ここで立ち止まってまとめてみましょう
- 現代社会でこの才能をどう位置づけていけばいいのか考えましょう
- 自己表現を分散させることが大事です
- オカルトや宗教はおすすめしません
- さあ、それでは最後のまとめにはいりましょう
突然ですがみなさんは「狐憑き」という言葉を聞いたことはありますか?
ある日突然「人格がまったく別人に変わってしまう」という現象です。
まぁ、だいたいは一日から数日くらいで元に収まることが多いですね。
症状としては、
- 他者の呼びかけに応じなくなる
- 具合の悪さ、錯乱した言動
- 手足の震えや頭痛
- 何者かが憑りついたような性格の変化
などが挙げられます。

現代でも狐憑き的な現象は存在します
あたかも「妖怪に憑りつかれた」ように見えることから、人を化かす動物霊のしわざとして狐憑きと呼ばれています。

今でこそ日常で狐憑きという言葉を耳にすることは少なくなりましたが、言葉が衰退したからといって現象そのものがなくなったわけではありません。
天狗堂も僧侶という職業柄、数こそ多くないもののそうした方と接する機会があります。
狐憑きをどう捉えればいいのか? どう受け止めればいいのか解説していきます
かつて狐憑きと呼ばれた現象は今でも間違いなく存在しますし、それに悩んでいる方もいらっしゃいます。
こうした現象を現代においてどう位置づければいいのでしょうか?
どんなふうに理解して、自分の中で受け止めればいいのでしょうか?
ここではそれをテーマに詳しく述べていきます。
まずは基本的な枠組みを説明します
以下で紹介する考え方は、天狗堂が僧侶として「狐憑き的な症状」に出くわした時、それをどのように観るかを基本に置いています。
つまり「狐憑きという現象の全体像を理解してもらい、社会の中で自分の立ち位置や居場所をどう定めるか」を目的としたものです。
簡単に言えば、
「狐憑きってものの正体はコレで、昔から名前を変えて存在してきたものなんだ。その時代時代にあった解釈がされていたのだから、現代なりのありかたを探っていこうよ!」
ということになります。
別の解釈ももちろん存在します。それを否定するものではありません
一方で精神医学や心理学の方面からは、これとは違った語り口、切り口で説明されています。
ニュアンスとして、精神医学などの方面からは「この症状をどう切り分けて探っていくか」を重視しているようにも感じますが、天狗堂は「この症状を大いなる人類の歴史の中にどう位置づけ、自分の立ち位置を確保するか」を重んじた説明をします。
だいじなのは「どちらか一方が正しいことを語っているのではない」ということです。
同じことを違った視点から語れば、まったくべつの出来事のようにも感じますね?
しかしもともとは同一のものであり、どちらか一方が嘘をついているわけではないのです。
こうした症状に悩まされている方は、きちんとメンタルクリニックを受診し、お医者さまやカウンセラーの先生の診断に従うことが肝心です。服薬の必要があれば、それも決められた用法・用量を守るようにしましょう。
では狐憑きの正体について見ていくことにしましょう
まずは全体の流れを確認しておきましょう。
大枠としては、
- あなたの身に起きる現象の正体は何か?
- それは歴史の中でどう扱われてきたのか?
- 現代社会でそれをどう扱っていけばいいのか?
という順に説明していきます。
「狐憑き=トランス状態の一種」です!!
狐憑き、あるいはとつぜん人格が入れ替わってしまうかのような状態のことを「トランス状態」と言います。
聞きなれない言葉が出てきましたね。
この「トランス状態」とは「変性意識状態」と呼ばれるものの一種です。
まずはこの変性意識状態から説明していきましょう。
変性意識状態というのは日常的な意識状態以外のすべての状態を指すもので、対象はけっこう幅広いものです。
たとえば、眠る前のうつらうつらした状態。意識が次第に夢の中に入りかけていて、目の前の状態を知覚しているにも関わらず自分の意識をコントロールできなくなる状態がそれに当たります。
あるいは激しい混乱や怒りの中にいて、ふだんの自分ならしないような言動をとってしまう。これもまた変性意識の一つ、いわゆる「パニック」です。

その中のひとつに「トランス状態」があります。俗に脱魂状態とも恍惚状態とも呼ばれているものです。
そうしたトランス状態にも種類があり、
- 魂が抜け出したかのように呆然とする、意識がなくなるもののことを脱魂・エクスタシー
- 反対に何か超常的な存在が乗り移ったかのように人格が変化するもののことを憑依・ポゼッション
と呼びます。
トランス状態に入る可能性は誰にでもあります。けっして奇妙なものではありません
このトランス状態が狐憑きの正体です。そしてトランス状態に入る可能性や素質といったものは、もともと誰もが持っているものです。
まずこれを大前提とします。
こうした前提を理解することで、狐憑きは「わけのわからない制御不能な怪物」から「不思議だけどだいたい仕組みはわかる現象」へと置き換わります。

トランス状態に入れることは、一種の才能でもあります
さて、変性意識とトランスについて、それが狐憑きの正体だということについて述べました。
トランス状態には誰もが入る可能性がありますが、その入りやすさは人それぞれです。
たとえば催眠術にはかかりやすい人とかかりにくい人がいるそうです。
催眠ショーってのをTVで見たことはありませんか?
ああした大勢の前で催眠術を実演する時は、あらかじめかかりやすい人を選んだうえで舞台に上がらせると聞きます。
そう。トランス状態への入りやすさはものすごく個人差のあるものなのです。

狐憑き様の症状に悩まされる人というのは、言い換えれば、
「突然ものすごく深い領域までトランス状態に入ることができる特殊な才能を持った人々」
だと言えます。
トランスの才能がある人=シャーマン
「こんなに困ってるのに才能だなんて……」と不満に思った方もいるかもしれません。
ですが歴史的には確実に、そうしたトランスに入る素質を才能として認められていた人々がいました。
それはいわゆる「シャーマン」と呼ばれる人々のことです。
シャーマニズム、あるいは巫術とも呼ばれるそれらの技を扱う人々は、古来より世界各地の民族集団に存在していました。

その特徴は「トランス状態に入って超自然的存在(霊、神霊、精霊、死霊など)と交信する現象を起こす」ことにあります。
狐憑きとシャーマンは原理的にほとんど一緒です
そう、ピンときた方もいらっしゃるでしょう。
方向性こそ違えど、トランス状態に入り別の人格を憑依させる(ように見える)点では、狐憑き的な症状もシャーマンも変わりはありません。
実際にシャーマニズムの世界では「巫病」と呼ばれる症状が知られています。
また新しい単語が出てきましたね。
巫病というのはシャーマンの素質を持つ方が、その成長過程において発する症状のことです。
これは人類学による調査の結果、世界各地で似たような症状が報告されています。
具体的には発熱、幻聴や神様の出てくる夢、重度になると昏睡や失踪、精神異常、異常行動などが特徴として挙げられます。
これを見る限り、巫病と狐憑き的な症状はかなり似通っています。本来同一のものと言っていいかもしれません。
これを逆に言い換えると、狐憑き的な症状に悩む方、深いトランス状態に入ってしまう方というのは「天然のシャーマン」と言うこともできます。

集団失神事件とシャーマン
本来、シャーマンは素質がないとなれないものです。
一方で、ある条件が揃うとそれに似通った現象が起きる場合もあります。
それが時たま新聞を賑わせる「女子学生の集団失神事件」です。
何かをきっかけに突如発作的な症状をみせ、学生がバタバタと倒れる事件というのは、宗教や文化に関わらず世界各地で報告されています。

興味深いのはそのほとんどが女子学生に起きるという点です。
じつに不思議な現象ですね。ですがこれも変性意識から考えることで理解できます。
本来、失神した学生たちは個人でトランス状態に入ってしまうことはなかったのでしょう。
ですが、集団の中で意識や感情の「共有や共鳴、同調」が起こり、それが引き金となって自己のコントロールができなくなったことにより発生したのだと考えられます。
本来であれば素質を持たない者にも「感染した」と言ってもよいでしょう。
共感性と場所の効果が集団失神の一因
そう考えると、集団失神が女子学生に顕著にみられるのも納得がいきます。
つまり、一般的に女子学生は男子学生より「共感性」を重視した関係を結びやすく、そのため感情の共鳴が発生したのだと考えられるわけです。
また、学校という場は同世代の人間だけが集団で活動する、ある意味で特異な場所でもあります。
そうした場所性もまた、集団による共鳴効果を高める道具立てとなった可能性があります。
こうした事件は言い換えれば「集団性により発生したシャーマニズム」と呼ぶことができます。
誰もが持っている、そして他の表現と変わらないもの
このように、トランス状態・シャーマニズムの力というのは、本来誰もが持ち合わせている能力です。
それは例えるなら笑ったり泣いたり怒ったり、そうした感情の表出と変わらないものです。
わかりますよね? これもまた「表現」の一種なのです。
しかしながら、感情の表出がうまくいかなければそこに苦しみが生じます。
突然のトランスといった症状も、「適切な制御が効かない」からこそ問題になるわけです。
プロのシャーマンとの違いは何なのか?
では「プロ」の熟練したシャーマンの場合はどうなのでしょうか?
一言で言えば彼らは「所定の儀式や舞台装置によって制御している」と言えるでしょう。
つまり彼らは、伝統にもとづいた儀式や場所をキーとしてトランス状態に入るようにみずからを訓練している、ということになります。

そのためにある日突然トランス状態に入り、周囲が困惑するということはないのです。
一方でいわゆる天然のシャーマンとは、こうした訓練を受けていないために突然トランスしてしまう人々だと言えるでしょう。
仏教と変性意識、トランスとの関わり
仏教もまた変性意識とトランスが深くかかわっています。
仏教は瞑想を非常に重視していますが、これは変性意識状態に入るための一つの手段です。

こうした瞑想行を続けていると、一部の修行者はトランス状態に入り「極楽を見た・仏に会った・至福の感覚を味わった」などの探検を得ることがあります。
ですが仏教ではそれは「偽涅槃」と呼ばれ、その状態に居つくことは厳しく戒められています。
禅宗が「仏に会うたら仏を殺せ」というのはこうしたプロセスのことを指すのです。
仏教において変性意識状態は「自分の深いところを探るため」の一つの道具に過ぎず、トランスによる至福の状態に沈溺するのは修行の過程で出会う罠であると考えられているわけです。
いったん立ち止まってまとめてみましょう
ではここまで述べてきたことをまとめます。
まず狐憑き的なもの、突然人格が変わったように呼び掛けに応じなくなり、手足の震えや気分の悪さといった症状をみせるのは、変性意識の一種、トランス状態に入っているのが原因です。
変性意識自体は眠りに入る直前など誰しもが日常的に遭遇するものですが、トランス状態に入るにはたとえば長時間の儀式や深い瞑想、あるいは薬物などの力を借りる必要があります。
ところが何の影響もなく、自分の意思に関わらず、ある日突然トランス状態に陥ってしまう方が一定の割合で存在します。
そうした方を「プロ」のシャーマンと区別して「天然のシャーマン」と呼びます。
プロと天然の違いとは!?
一般人が不意にトランス状態に入ってしまうことは「女子学生の集団失神事件」などにみられるように、集団的な共鳴によって起こりえるものですが、天然のシャーマンの特徴は「個人で、きっかけがはっきりとせっず、自分の意思と無関係に」トランスしてしまう点にあります。
これ自体は個人の素質、時と場合によっては「才能」とも呼ばれる特徴です。
そうした才能が社会的に認められ、方向性を位置づける伝統が存在するならば、天然のシャーマンは「プロ」のシャーマンとして自分の立ち位置を見つけることができます。
その代表例がイタコやユタであり、また世界各地にみられるシャーマン系の宗教者(台湾のタンキー、韓国のムーダン、アメリカのメディスンマン等)だと言えるでしょう。
歴史的にシャーマンの才能がどう扱われてきたのかを見ていきましょう
しかしながら、現代社会ではそうした天然のシャーマン気質を持つ方が、文化的に認められ訓練を受ける機会は少なくなっています。
なぜ現代の天然型シャーマンは、社会の中で立ち位置を見つけられず孤立しがちになってしまうのでしょうか?
それを知るためには歴史をさかのぼり、その時代によってシャーマン的な力がどう扱われてきたかを知る必要があります。
まずは太古の世界、人類がまだ文明を持たなかった原始時代から見ていくことにしましょう。
原始時代:シャーマニズムが求められ、集団と調和していた時代
さて、原始時代という定義もあいまいなものですが、ここでは「一定以上の社会制度を持たない小規模集団の文化」くらいの意味合いで使っていきます。
こうした文化では必ずと言っていいほど「超常的なモノと関わる能力を持った人」つまりシャーマンが集団の中で重要なポジションを占めています。
なぜならば人間というものは「知らない・分からないものに恐怖を抱く」ものだからです。
シャーマンが果たしていた役割り
大地が揺れるのはなぜか? 山が火を噴いたのはなぜか? 雨はいつ降るのか? 人はなぜ死ぬのか?
これら問題を理解しようと人は神や精霊といった存在を考えだしました。
それと同時に、神や精霊と交信し自分たちの状況、これから進むべき道を示す役割が必要になります。
この役割こそがシャーマンに求められたものです。

社会で必要とされていたからこそ問題とはみなされなかった
シャーマンは精霊のお告げを聞いたり、その身に宿すことができる存在とされ、しばしば集団の助言者やリーダーの役目も果たしました。
そのような文化内では天然型のシャーマンが問題と見なされることはありません。
彼らは「才能あるもの」として先輩シャーマンの指導の下、その方向性を位置づけ自分の立場を確立していくからです。
文化の形態によってもシャーマンの種類は異なります。
より原始的な集団、いわゆる狩猟採取社会では、自分が「あちら」に行く、脱魂型のシャーマンが多いようです。
一方でもう少し時代が下った後の文化、農耕を行う社会では、反対に「あちら」から自分の身にやってくる「憑依型」のシャーマンが多数を占めるようになります。
古代:農耕の始まりとシャーマニズムの社会からの分離
さて、シャーマニズムと社会が調和を保っていた原始社会にもやがて変化が訪れます。
きっかけは人類が農耕を始めたことによります。
農耕の開始によって、狩猟採取社会と比較して同じ土地でより多くの人口を養えることが可能になった結果、より大きな集団や初期の国家が世界各地に出現します。

集団が巨大化すれば、対立する集団との争いごともより大規模なものへ移り変わります。
こうした社会が求めるのは、精霊と関わり集団内の調整を図るタイプのリーダーではなく、より積極的に皆に指示を与え戦争を勝利に導くことのできるリーダーでした。
こうして「神権と王権の分離」が世界各地で静かに進行していきます。
お釈迦様が生きていたころのインドを例に見てみましょう
そのような社会の代表例が古代のインドです。
今からおよそ2500年前、お釈迦様が生きていた時代のインドの社会階層は4つのカーストに分かれていました。
このうち聖なる世界に関わるのが最上位のバラモン(神官)、そして俗世の人間社会を取り仕切るのがクシャトリア(王族・貴族・戦士)という階層です。
お釈迦さまはもともとが王子、つまり王族の出身でしたので、その身分を離れ修行者として生きるためには今までの暮らしを捨てなくてはなりませんでした。
このあたりにもシャーマニズム(あちら側)と人間社会(こちら側)の隔たりを見て取ることができますね。
このあたりにも神権と王権の分離、つまり「あちら側の世界に関わる人間はこちら側の俗世と距離を置くべき」という思想が見て取れます
古代~中世:取り残された天然のシャーマンの位置づけ
しかしながらここに新しい問題が生じます。
聖職者や宗教家が知識人として階層を形成し、俗世の社会は武力を統べる王族や貴族が支配する時代になったわけですが、人間が本来持ちうるシャーマニズム的な資質はなくなったわけではなかったのです。
この時代にももちろん天然のシャーマン資質をもった方は一定の割合で存在していましたが、そうした人々を社会のいずこかに位置づける必要が生じたわけです。
異類を使役する人々
ではこの時代のシャーマンはどのように理解されていたのでしょうか?
古代から中世の時代にかけて、こうした人々は「死者や生霊、妖怪などを使役する存在」と見なされるようになりました。
高知県のいざなぎ流の太夫、沖縄のユタや東北のイタコは、源流をさかのぼればこの時代にたどりつくと考えられます。

修験道の山伏もまた同じように「あちら側の世界に片足を突っ込んだ不思議な存在」と見なされるようになりました。
そうした畏れ(おそれ)の感覚から、山伏は時に天狗という人智を超えたものと見なされるようにもなり、飯綱という妖怪を使役できると考えられたりもしたわけです。

中世~近世:合理性のめばえと道を外れることへの忌避感
しかし、この関係は中世から近世へと時代が下るにつれて次第に逆転しはじめます。
様々な文化圏で「世の中を合理的に見る」という考えが人々の間に浸透してきたのです。
その結果「霊や妖怪を使役する、あるいは関わりあうことができる」と考えられてきた天然のシャーマンたちは「妖怪や悪霊に憑りつかれてしまった被害者」と一方的な見方をされるようになります。
その代表例が狐と狐憑きの関係でしょう。

キリスト教文化圏の考え方
あるいはキリスト教文化圏でいうところの「悪魔憑きとエクソシスト」にも同様の関係が見られます。
そもそも古代のキリスト教は、人間のトランス気質というものに対し割合中立的な考え方をしていました。
聖書にもそれを示す一説があります。
祈りが終わると、彼らが集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。
(使徒行伝 4.31)
これはおそらく、礼拝中の集団心理が引き起こしたトランス状態だと考えてもいいでしょう。
この時代のキリスト教では、憑依には良い憑依(聖霊など)もあれば悪い憑依(悪魔など)もあるという中立的な立場を取ってきました。
規範から外れるのは悪いこと!?
ところが時代を下るにつれて、日本と同じように「憑依現象が起きるのは悪霊や悪魔の仕業にちがいない」とする考え方が台頭してきました。

これはおそらく、合理主義が台頭するにつれて「正常な状態のみが良いものであり、その規範から外れるのは悪いことだ」という風潮が広がった結果ではないかと思います。
古代には儀礼的な役目を果たすだけであったエクソシストは、こうした思想の広がりを受けて「悪魔払いの専門家」として天然のシャーマン気質を持った方を「治療」する権限を広げていきます。

かつて人々を導く才能だと考えられてきたシャーマンの才能は、もはや治療されるべき「病気」と考えられる時代に移り変わったのです。
近世~近代:超常的なものから科学的・医学的なものへ
さらに時代が下り近世から近代へとさしかかる時代に入ると、こうしたいわゆる「病気」の原因は、心霊や妖怪の仕業ではなく、科学的に分析できる心の問題である、という考え方が生まれてきます。
日本においてそうした考え方が初めて記録に残されたのは、鳥取県でのことでした。
江戸時代、伯耆国の医師である陶山大禄(すやま だいろく)は『人狐弁惑談』という書物を記し、その中で「狐や狸が人に憑くことはない。これは心の問題である」と狐憑きを断じました。
シャーマン的な気質はもはや超常現象とすら見なされず、「狂気」あるいは「精神病」と呼ばれるようになったのです。
少し話はそれますが、現代でもこのシャーマン的な憑依現象を詳しい知見がない方が見た場合、近世的な狐憑きのイメージと、近代的な精神病の両者がごっちゃになった印象を持つのではないでしょうか?
このように、私たちが物事を観察し解釈するはたらきというのは、かなりのところ歴史的な経緯に影響されていると言うことができるでしょう。
ヒステリーの本当の意味を知っていますか?
さて、こうして近代に入ると「憑依的現象=トランス状態」は精神病の一種だと見なされるようになりましたが、その中でも最も有名なのは「ヒステリー」という病でしょう。
ところで「ヒステリー」と聞いてどんなイメージを思い浮かべるでしょう?
「一度怒り出すとキーッとなって手がつけられない」という感じではないでしょうか?
ですが、本来のヒステリーはそのようなものではありません。
2種類のヒステリー
本当の意味での「ヒステリー」とは、パニック障害や強迫性障害と同じ神経症の一種です。
その中でも症状から分類し「転換ヒステリー(転換性障害)」と「解離ヒステリー(解離性障害)」の二つに分けられます。
転換ヒステリーは「身体の一部、あるいは全部が麻痺やけいれんを起こす」「皮膚感覚が麻痺する」「声が出せなくなる(失声)」といった症状が特徴です。
一方で解離ヒステリーは「最近重要な出来事を憶えられなくなる(記憶消失)」「意識がもうろうとする」「とつぜん家庭や職場を捨てて遁走する」「トランス状態・多重人格状態」といった症状があらわれます。
見てわかる通り、これらはかなりの部分で狐憑き的な、あるいはシャーマニズム的なものと似通っています。
ヴィクトリア朝時代とヒステリーの関係
ヒステリー自体はかなり昔から知られた症状ですが、しかしそれが顕著に記録に残されるのは19世紀、ちょうどイギリスで「ヴィクトリア朝」と呼ばれる時代が続いていたころです。
この時代、欧米の女性はたいへんに抑圧的な状況におかれていました。
中流階級以上の女性は「女が外で働くなどとんでもない」とされていたことから、一日中を家の中で過ごし、満足に外に出歩くこともできなかったそうです。
それ以外にもしゃべり方、話の内容、立ち居振る舞い、服の趣味からものの考え方まで、マナーと社会的風潮で女性はがんじがらめになっていました。

心理学の登場、無意識という未知の領域
19世紀も終わりごろになると、こうした社会的風潮によるストレスとヒステリーの関係性を主張する人々が出現します。

このころ発展してきた心理学が、心の葛藤こそが神経症を生み出すという考え方をもたらしたのです。
そうした心の葛藤が、一方では身体の麻痺などに転換し、あるいは防御反応として記憶障害やもうろう、トランス状態に陥る原因だと見なされました。
解離性ヒステリーをモチーフにした『黄色い壁紙』
一方、同じ時代に発表されたアメリカの小説『黄色い壁紙』は、この問題を当事者の意識の流れから追っていきます。

現在ではホラー小説と見なされることも多いですが、この小説の本質は「抑圧的な環境におかれた女性が、真綿で首を絞められるように変容をとげていく」というものです。
『黄色い壁紙』の内容
あらすじはほとんどあってないようなものです。
神経症を患ったとされる女性が夫とともに片田舎の邸宅に療養に訪れます。療養のために夫から働くことも書くことも禁じられた女性は、しだいに自室の壁紙に執着を見せていきます。
どことなく陰気な壁紙を見続けているうちに、その後ろには「這いまわる女たち」がいるのではないか? 自分もその中の一人ではないか? という妄想に憑りつかれ、最終的に部屋に閉じこもり四つん這いで移動するようになる……というものです。
ここまで読んできた方ならわかる通り、主人公の女性が落ちった状況は制御されていないトランス状態、いわゆる狐憑き的な症状と大変に通っています。
言い方を変えるなら、彼女は「蜘蛛のように這いまわる女」というイメージに憑かれた、とも呼べるでしょう。
葛藤の抑圧と自己表現
ここで私たちが注目するポイントは3つあります。
- 書くこと=表現を禁じられていたこと
- 葛藤の抑圧が状況を悪化させたこと
- 日々蓄積していった葛藤が噴出する形で、自身の変容という結果に結びついたこと
これは逆に考えると、
女性が自身の欲求を理解し、それを表現することができる環境があったならば、四つ這いで這いずり回るような結果にはならなかった
と言うこともできます。
そう、ある意味でこうした変容もまた表現の一種ではあるのです。
前にも述べた通り、それは笑ったり泣いたり怒ったりといった感情の表出と似た仕組みなのです。
けれどもそれをうまく制御できないからこそ、苦しみが生じ問題だとみなされるわけです。
こうした点を考慮して、精神医学の世界では「ヒステリー」という語句は使われなくなり、代わって「身体表現性障害・身体化障害」という呼び方がなされているようです。
現代:自己表現とトランス、シャーマニズムの関連性
現代ではこのように、精神医学・心理学の分野からヒステリーが自己の表現だと理解されている一方で、人類学等の分野では世界各地に、いつの時代にも「変性意識とトランス」に関わる文化が存在することが明らかになってきました。
つまるところ、人間というのはどの時代であれ「トランスによって《あちら側》の世界に繋がろうとする傾向」があることがわかってきたのです。
そしていつの時代にも一定の割合で、その能力に特に秀でた人間が存在していました。
そうした才能のある人々は、時にシャーマンと呼ばれ、霊媒師や預言者、法術使い、妖術使いと呼ばれ、狐憑きや悪魔憑きと呼ばれ、ヒステリーなど神経症の患者と呼ばれてきたのです。
ここで立ち止まってまとめてみましょう
ここまで、シャーマニズムとトランスの歴史的な経緯を追ってきました。
シャーマンの才能がどう扱われてきたのかを要約すると、
- シャーマンとして社会の中心にいた時代
- 異類の使役者と見なされた時代
- 怪異に憑りつかれた被害者だという時代
- 精神の病を患ったものだという時代
- 葛藤の抑圧と自己表現の時代
という過程を経てきたことがわかります。
しかしこれは、ただ単に「歴史のお勉強」をしたいわけではありません。
重要なのは、
- 今こうして悩んでいる現象も太古の昔からずーっと存在してきたものであって、時代によって様々な扱いを受けてきた
- それは病気と見なされることもあれば才能と呼ばれることもあった
- こうした現象は人間がもともと持っている、笑ったり泣いたりといった自己表現と本質的には変わらないものだ
ということを、自分の根本的な世界観に定着させることです。
言い換えるならば、
「私はたまたまこういう才能をもって生まれついた。だからこそそれを拒否して嫌うのではなく、悪いものとして治療するのでもない。この才能を自分の個性として、適切な形で共存するのだ」
という方向を目指すことが大切だということです。
現代社会でこの才能をどう位置づけていけばいいのか考えましょう
いかかだったでしょうか?
「自分の身に起きているのはこういうことだったんだなぁ」と納得できたでしょうか?
さて、しかし一番重要なことが残っていますね。
そう。「結局のところどーすりゃいいのよ問題」です。
水はどこかにながさなくちゃならない
具体的な対応策に移りましょう。
狐憑きの本質は「感情の表出」だと言いました。
もう少し詳しく言うなら「日々心にたまっていく葛藤を処理するため、それを形にして外に洗い流すはたらき」とでも言いましょうか。
要するに、甕からあふれた水はどこかに流してやらなくちゃいけないんです。
ですが、それが狐憑き=トランスという形で表れてしまうから困ってしまうのですよね。
自己表現を分散させることが大事です
ならば、別の形でどんどん外に出していくことが一番です。
経験上、シャーマンの才能がある方はどちらかというと内面的な人が多いように思います。
つまり、いろんな形で自己表現をするのが苦手、ということですね。
まずは他の形で感情を表出していくのがベターですが、たとえば習い事をしてみるのもいいんじゃないでしょうか?
現代ではさまざまな習い事があります。スイミング、習字、英会話、演奏、ダンス・・・・・・etc.
中でも良いと思うのは「身体を使った趣味」です。
これははっきりとした理由はなく経験からくる勘ですが、間違いなく肉体に直接刺激があった方が感情を洗い流す効果は高いです。
ダンスやヨガなどがいいんじゃないでしょうか?
もしも自転車や登山に興味があればそれもよろしいでしょう(無理は禁物ですが)。
あるいは、ダンスや歌、ヨガなどのスクールに通ってみてはいかがでしょうか?

これらは原始時代からシャーマニズムとともにあった行いです。
自分を表現する行為でもありますし、適度に肉体に刺激を与えます。相性は非常によろしいでしょう。
こうしたスクールにもいろいろありますが、いくつか見学してみて自分に合っていそうなところにはいるのがいいでしょう。
どちらかと言えばガツガツした真剣なところより、和気あいあいとキャピキャピやってるところがよろしいと思います。
オカルトや宗教はおすすめしません
僧侶がこういうことを言うのもなんですが、これらの類はハマらない方がいいでしょう。
まず第一に、この手の業界には言葉巧みに近づいて金銭を巻き上げようとする輩が多いものです。
あなたの悩みにつけいって自分の言葉に従わせるような指導者に出くわしてしまえば、逃げるのはとても困難です。
そして第二に、これらの類は「ダウナー系」とでもいいましょうか、ようするに「自分の中に沈み込んでいく」タイプがほとんどです。
これは同じく沈み込んでいくタイプの狐憑き=トランスととても相性が悪いものです。

アッパー系とダウナー系はたとえるならこういうものです
たとえば演劇を例にとって考えてみましょう。
演劇もまた自己表現と言えるものですが、演劇の特徴は「演ずる役によって気分に与える影響が異なる」ことです。
たとえば、底抜けに能天気で明るい人物を演じた場合と、それと比較して殺人犯の役、何かに苦しめられる被害者の役を演じた場合とではどうでしょう?
お分かりですね? あなた自身が受ける影響は180度異なります。
二つの系統の違いを理解して、あなたに合った表現を見つけましょう
ダウナー系が即、悪いものだとは言えません。
ですが、暗いお堂に閉じこもって呪文を唱え続けるような行為は、まず間違いなく狐憑きを悪化させる方向に向かわせます。
「キャピキャピしたところで習い事を・・・・・・」と言ったのもこのためです。明るく活気にあふれた場所でワイワイやるのが一番でしょう。
自分のテンションが上がり、ワクワクした気持ちになれるものを見つけることが肝心だと思います。
習い事だけでなく普段の生活も大事です
くわえて言うならば、感情の表出は習い事だけに限るものではありません。
むしろ日常生活において感動したこと、うれしかったこと、面白かったことを遠慮せずどんどん表現していくことが大切です。
笑えることがあれば転げまわって笑えばいいのです。うれしかったら大げさにでも相手に伝えればいいのです。
遠慮して自分の感情に蓋をしてしまわないよう、存分にあなたを表わしてください。
いつしか狐憑きが起こる頻度も減っていき、最後には「狐憑きが起きる必要」もなくなっていくでしょう。
さあ、それでは最後のまとめにはいりましょう
長らくおつきあいくださりありがとうございました。
狐憑き的な現象は、わけがわからない不気味なものに感じるかもしれません。
ですがここまでお読みくださった方ならもうお分かりですよね?
すなわち、狐憑き=トランスは人間が本来持つ能力であり、あなたはたまたまそこに至る才能に長けていたということ。
そうした仕組みが分かってしまえばただひたすらに恐れる必要はなくなります。
笑ったり泣いたり怒ったり、人間が生まれつきに持つ表現を禁じてしまえば心は死んでしまいます。
同じく、あなたの自己表現の一種である狐憑きも、それを忌み嫌えばますます悪化していくでしょう。
大切なのは、狐憑きを恐れないこと。嫌わないこと。そして他の形で無意識に溜まった葛藤を外に洗い流してやることです。
「おさまるところにおさまる」を目指しましょう。

以上で終わりです。
ではでは。